東京高等裁判所 昭和55年(う)1258号 判決 1985年11月20日
目次
主文
理由
凡例
第一 弁護人の控訴趣意に対する判断
序
一 控訴趣意書第一章(公訴権濫用に関する事実誤認と法令解釈適用の誤りの主張)について
二 控訴趣意書第二章(事実誤認の主張)について
〔A〕日教組関係(被告人槙枝関係)
1 本件ストに至る経過について
2 本件ストの目的、性格、機能等について
3 被告人槙枝の「あおりの企て」について
4 被告人槙枝の「あおり」について
(一) 三・二九指令について
(二) 三・二九日教組教育新聞号外について
(三) 四・九指令について
5 本件ストの影響等について
〔B〕都教組関係(被告人増田関係)
1 本件ストに至る経過について
2 被告人増田の「あおりの企て」について
3 被告人増田の「あおり」について
(一) 三・二九指令と新聞都教組について
(二) 四月三日支部長・書記長会議について
(三) 四・九指令について
三 控訴趣意書第三章(憲法解釈適用の誤りの主張)について
1 「最高裁判例服従論の誤り」の主張について
2 「勤務条件法定主義・財政民主主義論の誤り」の主張について
3 「職務公共性論の誤り」の主張について
4 「代償措置論の誤り」の主張について
5 「地公法六一条四号合憲論の誤り」の主張について
(一) 憲法二八条との関係
(二) 憲法一八条との関係
(三) 憲法三一条との関係
6 「地公法三七条一項、六一条四号の教職員への適用の誤り」の主張について
(一) 教職員の職務の公共性
(二) 教職員の争議行為の影響
7 補論-「ILOの見解と憲法二八条の解釈」に関する主張について
四 控訴趣意書第四章(地公法六一条四号の解釈、適用の誤りの主張)について
1 「あおり」等の行為主体をめぐつて
2 「あおり」「あおりの企て」の解釈をめぐつて
3 「あおりの企て」「あおり」の具体的適用をめぐつて
五 控訴趣意書第五章(可罰的違法性に関する事実誤認と法令解釈適用の誤りの主張)について
六 結論
第二 検察官の控訴趣意に対する判断
一 控訴趣意の要旨
二 当裁判所の判断
第三 破棄自判の内容
別紙 訴訟費用負担表
控訴人 被告人 検察官双方
被告人 槙枝元文 外一名
弁護人 森川金寿 外一五名
検察官 宮崎徹郎
主文
原判決を破棄する。
被告人槙枝元文を懲役六月に、被告人増田孝雄を懲役三月に、各処する。
被告人両名に対し、この裁判確定の日から一年間それぞれその刑の執行を猶予する。
被告人両名に対し、別紙訴訟費用負担表記載のとおり、訴訟費用を負担させる。
理由
本件各控訴の趣意は、被告人両名の弁護人森川金寿、同佐伯静治ほか一四名共同作成名義の控訴趣意書及び検察官川島興作成名義の控訴趣意書にそれぞれ記載されているとおりであり、弁護人の控訴趣意に対する答弁は、検察官金井猛作成名義の答弁書に、検察官の控訴趣意に対する答弁は、前記各弁護人共同作成名義の答弁書にそれぞれ記載されているとおりであり、なお検察官の答弁に対する反論として前記各弁護人共同作成名義の反論書が提出されているのでいずれもここに引用する。
凡例
(一)最高裁判例の略称
最高裁一〇・二六判決 昭和四一年一〇月二六日東京中郵事件最高裁大法廷判決(刑集二〇巻八号九〇一頁)
最高裁四・二判決 昭和四四年四月二日都教組事件最高裁大法廷判決(刑集二三巻五号三〇五頁)
最高裁四・二五判決 昭和四八年四月二五日全農林事件最高裁大法廷判決(刑集二七巻四号五四七頁)
最高裁五・二一判決 昭和五一年五月二一日岩教組事件最高裁大法廷判決(刑集三〇巻五号一一七八頁)
最高裁五・四判決 昭和五二年五月四日名古屋中郵事件最高裁大法廷判決(刑集三一巻三号一八二頁)
(二)争議行為等の略称
争議行為 国公法九八条二項及び地公法三七条一項の各前段の争議行為。ストライキまたはストということもある。
「あおり等の行為」 右各条項の各後段の行為。なお、そのなかの個々の行為を「(遂行の)共謀」「そそのかし」「あおり」またはこれらの「企て」と、また本件の「あおり」及びその「企て」を併せて本件「あおり」等の行為、と略称することがある。
(三)証拠物の略称
符〇号 東京高裁昭和五五年押第四五四号符号第〇号
(四)その他
おおむね原判決の略称にしたがう。
第一弁護人の控訴趣意に対する判断
序
弁護人の控訴趣意書は、「序論、第一章ないし第五章、結論」の構成となつているところ、同書三二頁では、その内容をさらに控訴趣意第一点ないし第六点に再構成しているが、むしろ当初の構成にしたがつて検討するのが便宜と思われるので、以下おおむねその各章ごとに当裁判所の判断を述べ、なお必要に応じ、当審審理の過程であらわれた控訴趣意書に包含されていない弁護人の主張についても、関連箇所において付言すべきものとする。
一 控訴趣意書第一章(公訴権濫用に関する事実誤認と法令解釈適用の誤りの主張)について
所論は、要するに、原審において弁護人は、<1>本件起訴の適用法条である地公法や、同旨の国公法の規定に関する判例は著しく動揺しており、また法規としての明確性を欠くものであつたこと、少なくとも地方公務員についての最高裁判例としては、本件起訴当時最高裁四・二判決が変更されず存在したこと、<2>本件ストは日教組を含む二二単産以上の公務員共闘加盟の諸組合によつて行われたものであるにもかかわらず、ひとり日教組のみを起訴したこと、<3>本件捜査、起訴が参院選を目前にひかえ、日教組に打撃を与えようとして、これをねらい撃ちにした政治的意図が明白であること、<4>本件起訴前の段階における強制捜査は、異例にもスト当日に行われ、しかも大規模かつ周到な計画のもとになされた異常、過酷な弾圧であつたこと等を総合して、本件公訴提起は起訴便宜主義の裁量を逸脱し、憲法の法の下の平等原則に反する差別的起訴であり、刑訴法二四八条の公訴権の濫用にあたるものであると主張し、公訴棄却の申立をしたが、これに対し、原判決(IV第五・二一三頁)が右主張の各点に対し十分な理由に基づかず右申立を排斥したのは、理由不備ないし事実誤認をおかし、また同法三三八条四号の解釈適用を誤つた、というものである。
しかしながら、もともと公訴権の行使は検察官の裁量に委ねられているところであり、その裁量が不当であるとの一事によつて公訴の提起が無効となることはあり得ず、ただ、たとえば公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合にのみ無効とされることもあり得るものと解される(最高裁昭和五五年一二月一七日決定、刑集三四巻七号六七三頁参照)。しかるに、原審及び当審取調べの関係証拠を総合すれば、本件ストは、原判示の如く、また後に詳述するとおり、全国的規模による全一日ストという違法争議行為であつて、公共性の高い公立学校における義務教育の実施に少なからぬ影響を及ぼしたものである。そして、被告人両名は組織の最高幹部の地位にあつてこれを計画、指導、推進したもので、その責任は決して軽くないと認められるのであるから、被告人両名に対し、地公法六一条四号違反としてその刑責を問うため捜査を行い、起訴に至つたのはやむを得ない措置であつたというべきである。
所論は、本件は不当な政治的意図に基づく差別的起訴にあたるというが、しかし、本件ストを包摂する七四春闘ないし公務員共闘加盟諸組合のストはそれ自体大きな政治的事件であつたのであり、そうしてみればそのなかで、捜査当局または検察当局が捜査または起訴の対象を決定するにあたつて結果として或る種の政治的色彩を伴うことは避け難いことといわざるを得ないとともに、上述のような本件事案の性格にかんがみると、他はともあれ、本件が起訴に値いしないことの明らかなものを敢えて起訴した案件ともみられない。
また、地公法六一条四号が合憲であり、法規としての明確性についても何ら欠けるものでないことは、本件ストに先立つ約一年前になされた最高裁四・二五判決を先例として十分判断できたところであつて(事実、所論指摘の最高裁四・二判決もその後最高裁五・二一判決によつて変更された。なお、わが国には米国におけるような判例不遡及の法理はなく、すでに四・二五判決が存する以上、本件が五・二一判決による四・二判決の判例変更前の事案であることを形式的に考慮する必要はなかつたものである。)、地方公務員としても右四・二五判決の趣旨を尊重すべきであつた。したがつて、被告人らが右四・二判決の考えに立つて行動したことが当然であつたともいえない。いずれにせよ、検察官の本件起訴については、当時政治的あるいはマスコミ等による社会的批判があつたとしても、法律的にみてそれが無効とされるべき程の極限的場合に該当するとは到底思われない。したがつて、原判決が原審弁護人の前記主張及び申立を容れなかつたことは、むしろ正当で何らの不備・違法はなく、論旨は理由がない。
二 控訴趣意書第二章(事実誤認の主張)について
所論は多岐にわたるが、要するに、原判決の、本件ストに至る経過及び本件ストの目的、性格、機能、結果等に関する諸事実並びに罪となるべき事実の各認定には、それぞれ事実の誤認がありこれらは地公法六一条四号の解釈適用(適用違憲を含む。)あるいは違法阻却事由の存否についての判断の誤りをも導いたもの、と主張するものである。
以下、所論にかんがみ、順次判断を加える。
〔A〕日教組関係(被告人槙枝関係)
1 本件ストに至る経過について
弁護人は、原判決が、本件ストの立案・計画から実施に至る一連の過程のなかで、被告人ら組合幹部の者の指導行為が現実に果たした役割等について検討を加えるにあたり、本件ストの企画・立案は、早くも本件スト前年の昭和四八年七月開催の日教組第四三回定期大会当時までに執行部においてなされ、その結果が議案として提案・可決され、その後下部討議に付されたことが認められるところ、この七月の時期には、各県段階においては、翌年のことよりもまずその年度の給与引き上げの確定の方が差しせまつていたという事情にあつたのであるから、そのようなことを考えると、本件全一日ストヘの路線をまず用意して提示し、これに沿うよう組合員の意識を触発したのは被告人ら組合幹部においてであつたことは否定できない。」と認定、判示している点(原判決書IV第三、二、3。一六二頁)を批判し、右第四三回定期大会における大会方針、すなわち、七四春闘における闘争課題と、これを全一日という規模のストライキを組織して追求するとの方針は、同大会で突如として提案されたものではなく、昭和四五年以来確立されている賃金闘争路線に基づき、七一春闘、七二春闘、七三春闘を経て組合員の間に深まつていた共通の理解と切実な意識に裏づけられて決定されたものであるから、原判決の認定は組合幹部の指導行為を不当に過大に強調したものであり、これは被告人らの本件各行為の法的評価を判断するについての重要な前提事実に関し事実誤認をおかしたものである、と主張する。
そこで関係証拠に基づき検討すると、たしかに所論のような経過、すなわち、昭和四五年の日教組第三八回定期大会で、いわゆる七〇年代は労働基本権の確立、人事院勧告体制の打破等をめざす本格的賃金闘争の段階に入つたとし、半日以上のスト体制の意義が強調され、その後賃金闘争の面ではいわゆる七一春闘、七二春闘により人事院勧告の四月一日実施を獲得し得たとし、七三春闘からは人事院勧告の内容となる賃金の上げ幅そのものをめぐる闘争に入つたとする一方、その間労働基本権の確立を求める面では、具体的にはストライキに対する懲戒処分の撤回・阻止と実損回復の要求を目標として進められ、七三春闘では右処分問題が重要な政労交渉の課題となつた結果、政府との間でいわゆる七項目合意が成立するに至つた等の経過が認められ、七四春闘がこの経過の延長線上で進められるべき事情下にあつたこと、及び一般組合員の多数が日教組本部のとつたこの間の方針・行動等の大綱を是認する意識を有していたことは推測するに難くない。しかしながら、第四三回定期大会に提案された大会議案に盛られた内容中、ストライキの実施に関する部分、すなわち、七四春闘は、「国民春闘として官民一体となつた一大統一ストライキを組織する」「スト権がとれるまでストライキを継続するゼネスト体制で闘う」「春闘の重要段階においては一日ストライキを目途とする強力なストライキを組織する」等の点は、(各県教組の幹部的地位にあつた者はともかく)一般組合員において必ずしもそこまでの具体的展望を有していたとは思われない。昭和四八年七月の右大会の頃は、原判示のとおり、未だ昭和四八年度の人事院勧告、したがつてまた各県等の人事委員会の勧告は出ていない時期であつて、各県等の段階では翌年のことよりも、まず同年度の給与引上げの確定の方が差し迫つていたのであり、一般組合員も当然ここに主たる関心を集めていて、翌年度の賃金闘争の具体的方法に対する関心は必ずしも切実なものとなつていなかつたとみるのが事実に即していると考えられる。そして右定期大会議案は、日教組中央執行委員長である被告人槙枝を含む中央執行委員らが中心となつて立案にあたつたものであるところ、その過程で、今後公務員共闘の闘争の力量を質量ともに高めるためには日単位のストライキを実行すべきであるとの意見が強調され、中央執行委員として「七四春闘については日単位ということを目途にしよう。」との提議があつて(原審中小路清雄証言)全一日ストの構想が樹立され、大会議案の内容となり、それが可決されてここにストの枠組みが設定されたことがうかがわれる。したがつて、原判決が全一日ストヘの路線に沿うよう組合員の意識を触発したのは被告人ら組合幹部であつたと認定したのは正しく、その指導行為を不当に過大視したということはできない。
2 本件ストの目的、性格、機能等について
弁護人は、原判決の本件ストの目的、性格についての摘示(原判決書六一頁以下)に関しては、本件闘争において日教組等が賃上げ要求を掲げ、戦術として全一日規模のストを配置して求めた具体的目標が何であつたかを十分明らかにしていないのは不十分であるものの、この点を除けば異論がないとしたうえで、本件ストの機能につき、原判決が、「(人勧完全実施後は)組合側としてこの上有利な条件を引き出そうとすれば、勧告の基礎となる調査内容に組合として関与できるような方策の新設を考えるか、あるいは、同年七月の勧告に先立つて、春闘時期に政府との間で給与引上げ額をめぐる事実上の政・労合意を成立させ、これをその後の人事院勧告に反映させてゆくという方法をとらざるを得なかつたわけであろうが、現在の人事院制度は、人事院が独立の調査・勧告権を有し、実際にも独立して公平な立場で勧告をする点に、その勧告結果の説得性が依拠している面が強いのであるから、政・労合意の結果を右の勧告に反映させようとすることは、理くつはともあれ、実際上は、従来のように人事院制度を維持してその勧告内容の充実をはかるというよりは、人事院制度を部分的に否定して労使交渉による賃金決定という新方式への移行を求めようとする主張につながるだけに、そのことの政策的な当否は別として、現行人事院制度による保障を建前としている法制度のもとにおいては、到底そのまま一般に許容されにくい問題を抱えているものと思われる」と判示している点(原判決書IV第四、二、2。二〇八頁から二〇九頁)を批判し、原判決がいうところの人事院の権能及び勧告の説得性なるものは、今日の人事院勧告制度の運用の実情に照らしてみて、きわめて古典的な理解というべきである、すなわち、今日の人事院勧告制度は、人事院が独立した権限に基づいて国会及び内閣に対し勧告することを前提としながら、その勧告作成過程に政労双方の意見を反映させるような運用に変容してきているのであつて、そのことの故に本件闘争はまさに政労合意を勧告へ反映させることを求めようとしたものであつたし、人事院勧告は、現実には官民格差の是正を主眼とするものであるから、公務員共闘が春闘相場とりわけ公労協に連動した賃金改善を求めてたたかうのも当然である、とし、このような実情にあるのに、原判決が前記のように認定、判示しているのは、人事院勧告制度と政労交渉の関連をめぐる諸事情を看過し、結局日教組等が全一日という規模のストライキをかけても実現せざるを得ないと考えた具体的目標が今日の社会通念に照らしても社会的に是認せざるを得ない必然性を有していたのにこれを否定するという誤りを導いている、というのである。
しかしながら、所論指摘の原判決の判示部分が所論指摘のような人事院勧告と政労交渉の関連をめぐる諸事情を看過したというのは所論独自の理解のしかたに過ぎず、事実誤認を云々するのはあたらない。原判決のこの部分は、昭和四七年以来人事院勧告が四月一日に遡つて完全実施されている実情にかんがみれば、公務員組合側がこのうえ有利な条件を引き出そうとしてストを背景として交渉を行い、ストによつてその要求実現を図ろうとすることは、人事院制度による保障を建て前とする現行の法制度と調和しないことを指摘し、可罰的違法性阻却事由の一要素となし難いことを説明しているもので、その立論は後述する(五、(一))当裁判所の見解と背馳するものではなく、弁護人の主張は理由がないというべきである。
3 被告人槙枝の「あおりの企て」について
弁護人は、原判決が罪となるべき事実として認定、摘示しているところの被告人槙枝の「あおりの企て」についての諸事実、すなわち、日教組第四四回臨時大会における決定、指示第一八号(「指令第一八号」とあるのは「指示第一八号」の誤記と認められる。)の発出・伝達、第五回全国戦術会議における決定等について、それらの外形的事実を認めながら、原判決が、右の各行為は「あおり」行為へ向けての計画・準備行為と評価し、それらが「前後につながり合つた一体の行為として、所期の争議行為発生の危険を具体的に生じさせた」と認定している点(原判決書IV第三、三。一六六頁から一七一頁)を批判し、原判決は、右の三つの行為が「あおりの企て」に該当するかどうかを判断するにあたり、その前提となる事実を誤認した結果、判断を誤つたものである、と主張する。すなわち、原判決は、たとえば、日教組第四四回臨時大会における決定の内容につき、「全一日ストを実現するとして……同盟罷業の遂行を決定したうえ……」「スト突入にあたつての全組合員に対するスト指令は……」「……ストライキ突入体制を整備した……」などとし、また、第五回全国戦術会議において被告人槙枝が組合員に対し「同盟罷業実施の指令を発出・伝達するための具体的細目の計画準備をしていた」と判示し、右臨時大会にはじまる一連の経過があたかも「スト実施」を直接、第一義的な目的としていたように認識しているが、これらは単に「スト体制の確立」の経過を意味するにとどまり、この「スト体制の確立」とは、公務員組合の交渉機能の欠如を補完し、戦術目標を達成するための「ストの配置」に過ぎず、「スト実施」を直接の目的とするものではなくて交渉開始の契機を作り出すことを第一義的な目的とするものであるから、以上の一連の行為の結果として、争議行為発生の危険を具体的に生じさせたとはいえない、というものである。
(一) そこで、所論の当否を判断するため、まず労働組合一般におけるストライキの過程の始終を一瞥しておくと、それは当初組合大会等においてストの提案がなされ、次いでその議決の批准が行われる等してスト権が確立された後、指令権者から、外部的にはスト通告(スト宣言)、内部的にはスト指令が発せられ、ストの実行行為に突入し、やがてスト終結の指令によつてストが終息するという形で展開するのが通常の経過と思われる。それでは、本件当時における日教組のストの手順はどのようなものであつだかを考察してみると、この点につき、弁護人は、昭和三〇年代には日教組ないし各県の大会決定と闘争委員長のスト指令の発出・伝達という手続でストが実施されていたが、昭和四〇年代に入つてからは、(a)日教組臨時大会でストに関する指令権を日教組中央闘争委員長に委譲する、(b)批准投票を行う、(c)全国戦術会議を開いて、批准投票結果を確認し、その確認に基づいて、その会議の場で委譲された指令権を発動する旨宣言する、(d)その後は、中止指令がなされない限り、別途に指令の発出は行わずストは実施される、との仕組みになつていたと説明しており(当審第六回公判における公判手続更新にあたつての意見。同陳述書一八五頁)、関係証拠によればこれはおおむね肯認できるところといつてよい。(ただし、指令の発出の点についてはなお後述する。)そして、本件でも、右(a)は日教組第四四回臨時大会において、(c)は第五回全国戦術会議においてそれぞれその手続がとられ、その中間で(b)の批准投票が行われている。
この手順をみると、右(c)の宣言は通常いわれるスト指令の観を呈する。しかし、弁護人の主張によれば、これは「スト体制の確立」ないし「ストの戦術配置の確定」に他ならないというのであるし(控訴趣意書四五〇頁以下)、本件において、右全国戦術会議時においては未だストライキの日時が確定状態になく、予定されたところも一月位先のことであつたこと、同会議の内容が全組合員に伝達されるような形式のものでもなかつたこと、同会議当日配布された「七四春闘ストライキ戦術実施要項(行動規制)について」の内容は、ストに至るまで及びスト当日における組合員の行動の要領を詳細教示するものでストの準備を整えさせるのを主眼としているとみられること等に照らすと、純粋のスト指令と認めるのは甚だ不合理と思われる。したがつて、これを原判決のように「幹部間における最終的連絡に近いもの」(原判決書IV第三、五。一七九頁)と解釈することもできなくはないが、むしろ、この段階は前記スト指令権の委譲によつてはじまつた「スト体制の確立」が基本的に了した時と理解するのが相当であろう。
(二) それでは、この「スト体制の確立」(闘争体制の確立、同盟罷業実施体制の確立等と呼称されることもあるが、いずれも同義に解して妨げないであろう。)とはいかなる意義を有するかについて吟味を加えると、この点に関し弁護人は、「スト体制の確立」を「ストの配置」を意味するものとし、上掲所論のとおり述べたり、またたとえば、交渉力強化のためのストライキ戦術の内容の決定とその体制をとること、と述べたり、あるいは、その目的は組合員に対しスト実施の意思をオーソライズし、当局に対しては交渉力の背景をつくる予告的なものと述べたりして(原審弁論要旨一二一六頁、一二四八頁等参照)、「スト配置」をやや観念化するような捉え方をしている。しかし、「スト配置」とか「スト体制の確立」とかを右の意義にとどめて現実の「スト実施」との関連性を希薄化してしまつては、それは当局との交渉の場を作出するという当初企図した機能を殆んどもち得なくなつてしまうであろう。したがつて、「スト体制の確立」とは、たしかにストライキの無条件「実施」を確定したことを意味するものではないにしても、弁護人の主張するような意義以上に、組合として、もし欲すれば何らの内部的障害なしに「スト実施」に移行し得るという実力行使を背景にした強い闘争態勢そのものを指すと解しなければならない。
(三) かくして、日教組第四四回臨時大会における決定及び指示第一八号の発出は、その具体的目標を右のような「スト体制の確立」に置いているものであり、また第五回全国戦術会議における指令権発動宣言等は、爾後日教組闘争委員長の指導統制の下に各批准県教組が統一して、スト実施に直結するスト体制の確立を基本的に了したもの、ということができる。(もちろん、「スト体制の確立」はここで終つているものではない。この段階は、別言すれば、スト体制を大綱的に整備した段階であつて、「スト体制の確立」はスト突入まで継続強化される過程といえよう。)
したがつて、第四四回臨時大会にはじまる以上の各行事はスト実施に向けての不可欠な段階的行事であるから、原判決が、被告人槙枝が右の三つの行事に関与した行為をもつて「あおり」行為へ向けての計画準備行為に該当するとし、それらが「前後につながつた一体の行為として所期の争議行為発生の危険を具体的に生じさせたもの」としたのは正当といわなければならない。(その詳しい理由についてはなお四、3において後述する。)
弁護人の主張は採るを得ない。
4 被告人槙枝の「あおり」について
弁護人は、原判決が罪となるべき事実として認定、摘示した被告人槙枝の「あおり」についての諸事実(原判決書I第一、二)、すなわち、<1>いわゆる三・二九指令の発出・伝達、<2>三・二九日教組教育新聞号外「七四春闘第四次全組合員配布」の頒布及び<3>四・九指令の発出・伝達について、原判決がこれらの行為をもつて同盟罷業の遂行の「あおり」にあたると認定、判示している点を批判し、原判決は右の諸行為のもつ意義、目的、効果等の認定を誤つている、と主張する。
(注) 右の三・二九指令及び四・九指令についてはこれらが「指令」であるか否かについては後記の如く争いがある。そして、三・二九指令は都教組本部を除く各県教組本部には電報をもつて、都教組本部には口頭をもつて伝達されている。一方四・九指令は都教組を含め各県教組本部に電話をもつて伝達されている。そこで以下には、前者のことを三・二九電報と一括して呼び、後者のことを四・九電話と呼ぶこととする。
(一) 三・二九指令について
所論は、原判決は、いわゆる三・二九指令について、昭和四九年三月二九日春闘共闘等により、同年四月八日から一四日までを春闘共闘第四次統一行動期日としてゼネストを行う旨決定されたとしたうえ、「公務員共闘もこれに合わせて同月一一日から一三日にかけて『一日ストライキ・半日ストライキ』を反覆決行する方針を確認したのを受け……日教組本部名義で『春闘共闘戦術会議の決定を受け、公務員共闘は四月一一日第一波全一日ストライキを配置することを決定した。各組織は闘争体制確立に全力をあげよ。』との趣旨の指令を発出・伝達した」旨認定しているが(原判決書I第一、二、1。一五頁以下)、これは第一に、「スト配置」と「スト決行」を同視、混同するものであつて、公務員共闘、日教組とも同日「スト決行」を決定したことはなく、公務員共闘が「スト配置」の日程を決定し、日教組本部はこれを受けて、下部組織に連絡したのに過ぎない点、第二に、いわゆる三・二九指令は「指令」ではなく、電報による単なるスト日時の連絡である点、において誤認をおかしている、という。
(1) しかしながら、「スト配置」という用語が組合用語として「スト決行」とか「スト実施」と区別されるとしても、その有する機能が前述のとおり、スト実施に直結するものである限り「スト配置の日時」と「スト決行の日時」とを区別する実益はなく、全く同じ意味を有するものと受けとつて差支えないと思われる。
(2) 次に、三・二九電報が指令であるか、単なるスト日時の連絡であるかであるが、前者であればスト参加への強力な慫慂行為として「あおり」にあたる蓋然性が高いのに対し、後者であれば「あおり」にあたる可能性が低い。この点につき原判決は、結論として、三・二九電報を一応指令と解したうえで、なお組合規約等の観点から「指令」と呼ぶべきか否かにかかわりなく、その実質から「あおり」にあたるかどうかを判断すべきものとし、結局「あおり」にあたるとしたものである。そこで検討する。
三・二九電報の内容は、その前段部分として、「春闘共闘戦術会議の決定を受け公務員共闘は四・一一日第一波全一日スト、四・一三日第二波ストを配置することを決定した」、後段部分として、「各組織は闘争体制確立に全力をあげよ」というものであるところ、これをスト日時の連絡にとどまるとする弁護人の主張を裏づけるおもな証拠としては、原審中小路清雄(当時日教組書記長)、当審田中一郎(当時同書記次長)、原審及び当審平野一郎(当時都教組書記長)の各証言であつて、これらの者は殆んど異口同音に、全国戦術会議における指令権発動の宣言があつた後は、指令なるものはあり得ず、したがつて三・二九電報は右指令権発動の際未定であつたスト実施日時を補充する単なる「日時連絡」であり、同電報後段部分は組合内における慣用的文言に過ぎない旨証言する。しかし、これらの証言は以下の理由により必ずしも納得できるものではない。
イ、本件当時における日教組のストの手順として弁護人の説明するところは、おおむね前記(3、(二))のとおりであるが、この説明どおりだとすると、本件当時における日教組のストは、さながら「スト指令なきスト」とみられるようである。しかし、前記全国戦術会議における指令権発動宣言後は、もはや自動的にストに突入する態勢にあつたとか、中止指令以外全く指令あるいはこれに準ずる行動要請等があり得ないものであつたなどとは俄かに考え難いところである。けだし、もともと昭和四〇年を境にして前記の如き一種の戦術転換が何故に行われるに至つたかは必ずしも詳らかではないが、従前の「スト指令」発出方式は当局の取締りを受け易いという配慮から前記のようなきわめて屈折した方式に移行したと推量する余地が十分存するのみならず、本件に即していえば、前記第五回全国戦術会議における指令権発動宣言後スト突入まではなお相当期間の間隔があり、かつ他団体との共闘態勢を組んでいて、スト日時も内定の域を出なかつた本件の如き場合には、その間の情勢に即応しつつ実力行使戦術の確定・確認・変更等の措置をとる必要もあることであろうし、また団体強化のための方策を講ずべき事態も予想されるので、これらの点をよく見据えたうえで、スト突入の契機となる指令ないしこれに準ずる行動要請を発出することとは、ほぼ必然的に求められる関係にあつたと考えるのが実態に合していると思われるからである。さればこそ、後述の如く、下部組合の大方において本件につき指令発出があつたと観じていたことが容易に理解されるゆえんであろう。
ロ、三・二九電報発出の経過をみると、同電報は、それまではまだ内定の域にあつたスト日程につき、いよいよ各共闘団体との間で確定した段階において、これを全国的規模で各県教組に対し、日教組本部名義をもつて、電報すなわち文書の形式(都教組に対しては口頭)をもつて伝達されたものである。しかもそれは、本来三月二七日に決定伝達される予定のものであつたのが二九日に延期されたことについても、二八日付で各県教組あてわざわざ電報をもつて連絡されたうえで発せられていて、それだけにきわめて重要視される性質のものであつたといわなければならない。そしてその内容中、前段部分はストライキ決行の確定日時を伝達するものであるが、これはそれ自体第五回全国戦術会議により、基本的にスト体制の確立を了し一種の待機状態にあつた段階を、現実のスト決行に結び合わせる意義をもち、当然一般組合員に対し、その明示された確定日時におけるスト参加を強く要請する趣旨を含意し、まさにストの起動をはかる「スト指令」と呼ぶに足りるものであつたと思われる。加えて右電報後段部分の前示文言は、スト体制の確立(強化)を命令調で指示するものであり、ますますその指令たる性格を強くうかがわせるものであつた。上記証人らはこの電報後段部分を慣用的文言に過ぎないというけれども、これを、その頃発せられた他の電報(符五二五号、一五九号、六〇九号、六五五号等)と対比するとき、特に命令調をもつて「全力をあげよ」とする点において際立つており、到底常套的慣用文言とは認め難いものがある。
一方、日教組教育新聞は、その三月二二日付において全国戦術会議の内容を報道するに際し、「具体的な(スト)突入日については三月二十七日予定の春闘共闘戦術委員会の最終決定をうけて、中央闘争委員会が各県に指令することになつた」旨を、ついで三月二九日付(号外)及び四月二日付において、日教組は、四月一一日に全一日スト、一三日に早朝二時間ストを決行することを決め「全国に指令した」旨を、それぞれ明確に登載している。
ハ、次に、各県教組における三・二九電報の下部組織への伝達状況をみると、北教組、広教組各本部においては三・二九電報の前段、後段部分と同旨の内容を電報その他の方法をもつて支部、支会、分会あてに伝達していること、また岩教組本部においては三・二九電報の前段部分と同旨の電報を支部に伝達し、この三・二九電報は明らかに指令と解されていること、さらに埼教組本部においては、三月二九日当日開催の第五回拡大戦術会議の席上榎本副委員長から出席者に対し、三・二九電報と同旨の事項を告知し、これが下部に伝達されたこと、等が証拠上明白である。(もつとも、埼教組の場合については少しく説明が必要である。すなわち、小島冨士子の検察官面前調書によれば、「右拡大戦術会議において榎本副委員長が『日教組からスト決行日決定の指令がきた。埼教組も統一ストライキを成功裡に行わなければならない。各単組にこの方針を伝えてくれ。』との発言をした。」旨の供述があるが、同副委員長は当審において右とやや異なる証言を行い、「自分は会議前に、日教組本部の今村彰情宣局長にストの日時を問い合わせて『公務員共闘の会議はまだ終つていないがスト決行日時は四月一一日全一日、同月一三日早朝二時間と決定されることは確定的』との情報を聞き出したうえ、議案書に右日時を公務員共闘の決定に先行して記載し、これを出席者に配布し、かつ会議の席上右の日時は最終決定である旨説明したものである。そしてその後、日教組本部から『電報も打つたが遅れるといけないから電話で連絡しておく』ということで、三・二九電報と同内容の電話連絡を受けたが、出席者に対しては、その内容はすでに説明ずみのことであつたため改めて告知しなかつた。会議終了後電報が到着した。」と述べている。しかし、榎本証言によつても、出席者に対し、三・二九電報前段部分の内容は、いわば先取りした形で告知され、後に同内容の電話電報の到着があつたが改めて告知する必要もなかつたというのであるから、結局のところその伝達があつたとみるべきはもちろん、会議の状況上後段部分の趣旨も十分徹底していたと判ぜられる。なお、この経過において、三・二九電報の到達が遅れるのを心配して、殊更電話をもつて同内容のことを連絡した日教組本部の措置は、同電報が単なる日時連絡以上の重要性をもつものであることを示す有力な証左の如く思われる。)
他方、都教組本部における取扱いは次の如きものである。すなわち、上記平野証言によれば、同本部では三・二九電報と同内容の連絡を受けたものの、これを指令とは考えなかつたので、下部に対しては電報前段部分のスト日時が決定した旨を伝達したにとどまる、というのである。しかし、右前段部分はそれだけで十分指令性をあらわすものであること既述のとおりであり、また新聞都教組第九八二号には電報後段部分をそのままの形で掲載されてはいないが、同電報内容のすべてが詳しくふえんされており(その大見出しは「11日に全一日スト 都教組、全力をあげて成功へ」となつている。)、都教組においても実質的に指令の趣旨を伝達したのと変らない措置をとつたということができる。
ニ、そこで、右のような各県教組における伝達過程に加え、前記日教組教育新聞が全国組合員の多数に頒布され、その影響力も大であつたことにかんがみるときは、組合員の大部分が三月二九日にスト指令があつたと受けとつたことはほぼ疑いない。そして、原審及び当審にあらわれた各種証拠によつて認められる三・二九電報内容の各下部組織に対する滲透結果、特に以後同電報によつて示されたスト決行日時が本件におけるスト体制の強化・スト突入のための重要な指標となつた事実等に照らすと、同電報が未確定のスト日時を埋める連絡に過ぎないものであつたとは到底信じ難いところである。
以上縷述したとおり、三・二九電報は一般にスト指令と呼ばれる性質のものであつたとみるべきである。そして、その発出時機、内容、伝達状況、下部組織の受けとめ方等を総合すれば、明らかに後述「あおり」の定義に該当するものといわなければならない。したがつて、原判決の認定に格別の誤りはなく、所論には左袒し難い。
(3) なお、弁護人は、当審最終弁論において、被告人槙枝は、右三・二九電報の発出・伝達について全く関与することがなかつたとし、同電報による「あおり」の共謀責任(日教組本部役員との間における同電報発出の共謀及び各県教組本部役員との間における同電報内容伝達の順次共謀)を否定する主張をしているので(弁論要旨四一七頁、四二四頁)、職権をもつて判断するに、以下の理由によりその主張には賛同できない。すなわち、
イ、前記三月一九日の第五回全国戦術会議において、被告人槙枝は中央闘争委員長として、東京、北海道、岩手、埼玉、広島を含む二五都道府県教組について「指令権を発動する」旨宣言し、ここに既述の如く「スト体制の確立」を基本的に了したものであるが、この「スト体制の確立」とは、批准各県教組に対する関係では決定された日時に直ちにストに突入し得る非常体制を整えておくべきことを命ずるものであると同時に、当然中央闘争委員長の帷幄としてスト実施の中枢機関となる日教組本部に対する関係では、今後各県教組に対する指示・指令の発出・伝達はもちろん、必要に応じ中央情報を連絡し、またスト決行を督励する等の措置を臨機にとり得る体制固めを義務づける側面をももつものであつたといわなければならない。そして関係証拠によれば、そのため下部組織へのスト関係の主要事項の発出・伝達等は本部残留責任者たる書記次長に、また機関紙内容の決定、下部組織への発送等は情宣局長(中央執行委員)を責任者とする情宣局に、というように事務が分担されていたと認められる。また、本部各役員間には常時相互連絡、意思疎通があつたことは容易に推測でき、いずれにしても、前記全国戦術会議における決定内容の実現に向けての日教組本部内の具体的行動は、おおむね中央闘争委員長の予見した指揮範囲、換言すれば包括的指示内の行動であつたとみるべきである。したがつて、スト突入日が決定した際にこれを指令として下部へ伝達し、スト参加を強く慫慂する格別の意味をもつた三・二九電報の発出は、もとよりその例にもれるものではなく、これを田中書記次長においてとりしきり、被告人槙枝が直接関与していなかつた(あるいは、当日中央執行委員会が開催されなかつた)からといつて、同被告人が同電報発出の共謀責任を免れる関係にあるとはおよそ考えられない。
ロ、次に、上述の如く、第五回全国戦術会議によつて各批准県教組はスト体制の確立を基本的に了したこととしたものである以上、これに出席しまたはその報告を受けた各県教組本部役員らにおいては、今後日教組本部から発出されるべきスト関係の指示・指令等については当然下部機関及び所属組合員にこれを伝達することを了解したものであることは言をまたないところであり、したがつて、本件ストについて指導的立場にあつた右各県教組本部役員らが三・二九電報による指令を受け取つた時点において、その内容の伝達について原判示の如く被告人槙枝らといわゆる順次共謀を遂げたとみるのに何の支障もないというべきである。
(二) 三・二九日教組教育新聞号外について
所論は、原判示三・二九日教組教育新聞号外の頒布は、これにより組合員がスト参加を決意する契機となるなどと評価し得るものではない、という。
しかし、同号外は、「歴史的な全一日ストを総力をあげて成功させよう」との大見出しの下に、「全組合員配布」を予定して作成されたもので、七四春闘はいま決戦段階にあること、日教組運動史上かつてない全一日の全国統一ストを中心とするストライキを整然とたたかいぬくことが組合員一同に強く求められていることなどの内容を含む檄文的構成がとられており、明らかに後述するような「あおり」に該当する文面・文意とみるべきであるから弁護人の右主張は採るを得ないこと明らかといわなければならない。
なお、弁護人は当審最終弁論において、この日教組教育新聞号外は日教組本部情宣局独自の編集発行にかかるもので、被告人槙枝はその内容について一切関知しておらず、したがつてその頒布につき共謀責任を負わない、との新たな主張をしている(弁論要旨四五六頁)。そこで職権をもつて判断するに、日教組本部においては第四四回臨時大会前の二月段階からすでに「七四春闘特別教宣計画」を策定し中央闘争委員長たる被告人槙枝名義で各県教組委員長等あて発出しており(符四〇七号等)、スト体制確立、春闘勝利のアツピール等についての情宣局の任務は被告人槙枝においてその大綱を把握していたことは疑いない。そして、前述第五回全国戦術会議後においては情宣局は、中央闘争委員長の統制のもとに右計画の内容に同会議の決定事項を受け入れたうえ、スト奏功のための諸活動をなすべく義務づけられていたとみるべきであるから、三・二九電報について前述((一)、3、イ)したと同様の理由をもつて、中央闘争委員会の名義を付した三・二九日教組教育新聞号外の作成頒布について被告人槙枝の共謀責任を否定することはできないと考える。
(三) 四・九指令について
所論の要点は、四・九電話は、中央における交渉状況を中心とした情勢の連絡に過ぎないのであつて、原判決が考えているようなスト突入の指令ではない、このことは、これが必ずしも教職員に対し発せられたものではないこと、この電話内容は都教組をはじめとして大部分の県教組においては、全く、もしくは支部段階程度までしか伝えられていないことから明らかだ、というものである。
(1) そこでまず関係証拠によつて、四月九日前後における中央での春闘の交渉状況をみると、四月初旬頃は民間組合の賃金交渉が逐次妥結していく段階にあつたところ、そのなかで春闘共闘、公務員共闘とも、ほぼ連日にわたり、賃金、物価対策、年金、労働時間短縮、スト権、実損回復等の諸問題につき対政府交渉を行つてきたが、いずれも回答は延期されていた。そして、四月九日午後四時三〇分頃から春闘共闘と労働大臣との交渉が行われ、スト権問題、スト回避の点等が論ぜられ、また同日午後五時頃から公務員共闘と総理府総務長官との交渉が行われ、賃金、労働時間短縮問題その他が取りあげられ、次いで同五時三〇分頃から春闘共闘と同総務長官との交渉が行われ、スト権問題等が議題とされた。しかし、いずれも具体的進展はなく一〇日以降の再交渉にもち越された。かくして政労交渉はなお継続中とみられる状況下にあつたが、四月一〇日昼過ぎに至り、政府は参議院予算委員会で「ゼネストについて」と題する閣議決定を発表した。ところが、春闘共闘としては、右閣議決定はこれまでの対政府折衝の経緯を無視するものと強く反発し、以後、政府との公式交渉はストツプするに至つた。そして春闘共闘は同日午後四時から緊急幹事会、同六時半から最高指導委員会を開き、既定方針どおり一一日からのゼネストに突入するとの方針を決定・承認し、公務員共闘戦術会議もこれを確認した。以上のような経過がうかがわれる。ところで、本件の四・九電話は四月九日昼頃発せられたものと認められる。しかしこの頃は上記のとおり春闘共闘、公務員共闘とも対政府交渉を直前に控えている時で、予定したストに突入するか否かは、今後における政府の態度いかんにかかわる面があつて、なお流動的であつたと判断される。そこでこのような経緯に照らして四・九電話の性格を検討すると、同電話の内容は、岩教組が下部へ伝達した電報、すなわち、「日教組からの電話指令、春闘共闘、公務員共闘の交渉は誠意ある回答なし、各県は予定どおり全国戦術会議の決定に基づきストライキに突入せよ、日教組、なお現在交渉中であり内容は電報で知らせる」旨の電文とほぼ同内容とみられるところ、日教組本部としては、この時期になお当局と交渉中のためスト中止はあり得ないとの最終的判断を下す段階ではなかつたのであり、特に情勢の急変があつたわけでもないことから、三・二九電報以来すでにスト臨戦体制に入つている下部組織に対し、同電報に上乗せする形のスト突入指令を発する必要性は存しなかつたと考えられる。したがつて、四・九電話をスト突入指令の一として捉えるのは適切ではない。しかしながらさればといつて、所論のように単なる情勢連絡というのもあたらない。けだし、中央交渉状況についての情勢連絡としては右電話は具体的内容に乏しく(証拠として提出されている三・二七電報((符五二五号))、四・九電報((符六〇九号))、四・一〇電報((符六五五号))と対比のこと。)、そのようなものを全国一せいに同一案文をもつて殊更に伝達するのは特別の意味を有していなければならないはずであるからである。最も合理的な推測は、当時前述のような中央情勢に若干流動的要素があつて各県教組からスト突入の見通し等に関する問合せも少なくなかつたことから、現時点では当局の誠意ある回答がない以上ストは予定どおり行われる状況にある旨、ただし、交渉は継続中であることを各県教組に改めて確認させ、スト体制のゆるみを戒めその昂揚をねらつてスト必至を訴えた、スト直前におけるいわばZ旗的意味をもつ行動要請であつたとみることであろう。果してそうであれば、その発出された時機及び文脈に照らし、これが「あおり」に該当する電話連絡であつたことは疑いない。したがつて、原判決のように、四・九電話に指令の用語を用いるのはやや難があるが、この点を除けばその結論は是認できるので、所論は採用できない。
なお、この四・九電話についても、弁護人は、当審最終弁論において、被告人槙枝はその発出に関与していないとして同電話による「あおり」の共謀責任(日教組本部役員との間における同電話発出の共謀)を否定する主張をしている(弁論要旨四七五頁)。しかし、右電話の発出は本部残留責任者であつた田中書記次長によつて行われているものの、四月九日当日被告人槙枝と同書記次長との間に連絡は保持されており、当局の誠意ある回答がないとの判断が同書記次長独自の判断であつたとは到底考えられないし、その点は別としても、下部組織に対し中央情勢の連絡や士気昂揚を図るような実務的行為は、前述((一)、(3) 、イ)のとおり書記次長の任務分担とされていて、これらはすべて中央闘争委員長たる被告人槙枝の包括的指示範囲内の行為と認めるべきであるから、弁護人の主張には賛同できない。
(2) 次に、この四・九電話の内容は、スト批准を行つた各県教組、特に都教組、北教組、岩教組、広教組各本部に伝達されたことは疑いない。そして、右のうち都教組を除く三県教組本部においては被告人槙枝ら日教組本部役員の意を受けて(弁護人はここでもこれら県教組本部役員との順次共謀の事実を否定するが((当審弁論要旨四八一頁))、その主張を採るを得ないこと前述(一)、(3) 、ロと同様である。)、右電話の趣旨を電話もしくは電報により傘下各支部に伝達し、また各支部は四月一〇日夜までの間に電話によりあるいは各種会合等において口頭により、多数組合員に対し伝達したことは証拠上明らかである。したがつて、右三県教組に関する限り、四・九電話内容の下部への伝達がなかつたとの弁護人の主張は事実に反するというべきである。いうまでもなく、被告人らのあおり行為の成否を決定するにつき、右電話の内容がもれなく全組合員に伝達されることは必要ではない。原判決の認定は「各県教組さん下小・中教職員多数に対し、各県教組支部役員らを介して伝達した」というものであつて、この事実は原判決挙示の証拠によつて証明十分というべきものである。
しかしながら、都教組については事情を異にする。すなわち、本件当時都教組書記長であつた平野一郎の原審証言によれば、都教組本部においては四・九電話を受領したものの、これは中央交渉の情勢連絡に過ぎないと把握し、これを組織的に下部に流すことはしなかつたとみるべきもののように思われる。もつとも、原審取調べの分会長クラス以下の組合員らの検察官面前調書のなかには、四月九日ないし一〇日の段階のこととして、スト指令が出ている旨聞知したとか、分会長からスト突入の話があつたとか述べる部分もないではないが、同人らの原審公判における証言ではいずれもその趣旨があいまいになつており、両者を総合して考察すると、同人らの述べるところは、その頃支部等に伝達された他の情報に関するものと解する余地もないではない。さらに、直接都教組本部から連絡を受けるべき支部長クラスの者で四・九電話の内容を知らされたと供述ないし証言している者は見当たらないことや、四・九電話については、他にも埼教組のように下部に伝達したとは認められない例もあることなどをもあわせ考えると、日教組本部の発出した四・九電話の内容が都教組の支部以下に伝達されたとの確証があつたとはいい難い。してみると、原判示「罪となるべき事実」第一、二、3、(二)の後段、すなわち「(被告人槙枝は)都教組役員らとも順次共謀のうえ、……東京都内において、都教組さん下小・中教職員多数に対し、都教組役員らを介して右指令(注、四・九指令)の趣旨を伝達した」との点(原判決書一六頁)は、都教組役員との順次共謀の点及び指令伝達の点ともに証明不十分とみるほかない。そして、四・九電話を都教組本部役員に伝達しただけでは(一般組合員に対し伝達されない以上)、未だ「あおりの企て」状態にとどまつており、「あおり」罪の成立はないと解されるので、結局右(二)の全事実を肯認し、同罪の成立を認めた原判決は事実を誤認したものというべきである。ただし、この点は、原判決摘示のその余の「あおりの企て」及び「あおり」の事実とあわせて包括一罪を構成し、その一部に過ぎないので、未だ判決に影響を及ぼすべき誤認ではなく、原判決を破棄する事由には該当しないと思料される。
(3) ところで、この都教組の場合と同じく、他の県教組においても、四・九電話の内容を下部に伝達しなかつたところも若干あつたやに推測される。埼教組はその例の一つである。(原判決がIV第三、六、1、一八一頁において埼教組も右内容を下部組合員に伝達したとしていることは誤りと思われる。)そこで、このことから、日教組本部においては、四・九電話の内容は下部教職員にまで伝達されることを予期するものではなく、これがかりに下部に伝えられてもそれは責任外のことであるので、被告人槙枝につき同電話の発出は全体としてあおり行為を構成するものではないとの見解も生まれ易い。所論が右電話が教職員に対し発せられたものでないとする趣旨はおそらくここに存するのであろう。しかし、同電話は各批准県教組に対しスト直前の時点で前述のとおり、現情勢では予定どおりストライキに突入することは必至である旨を訴えた行動要請たる性質のものであつたこと、これに対する北教組、岩教組、広教組にみられる各取扱いが最も一般的な対応のしかたであつたと考えられること等に徴すると、日教組本部としては、右電話の内容が下部組合員に滲透することを当然望んで行つたことと判断され、したがつて、右見解は採るを得ないといわなければならない。
要するに、四・九電話に関する所論は結局において理由がない。
5 本件ストの影響等について
弁護人らは、原判決が、本件ストの影響が大であつたと判示している点を批判し、これは事実による検証を抜きにした抽象的推認に過ぎない、という。
思うに、原判決が本件ストの結果ないし影響について判示する部分は原判決書IV第一(六五頁から六六頁)並びにIV第四、二、2及び第五(二一〇頁から二一五頁)においてであるが、これらの部分に特に事実を見誤つたと考えられるべき点はない。この点に関してはなお関係個所において詳細説示する。
〔B〕都教組関係(被告人増田関係)
1 本件ストに至る経過について
弁護人は、原判決が、本件ストに至る経過につき「都教組本部は、日教組の右第四三回定期大会をはじめとする各種会議で決定された七四春闘構想を受け入れて、大幅賃上げ、物価値上阻止、スト権奪還等を要求課題として七四春闘を全労働者、全国民的規模のたたかいに発展させる、このため昭和四九年四月中旬から下旬にかけて第一波二時間、第二波全一日ストライキの万全な態勢を確立すること等を主たる内容とする『当面の春季闘争について(案)』をとりまとめ、昭和四九年一月に開催された都教組拡大戦術委員会において確認のうえ、同年一月上旬ころの教聞都教組に『職場討議資料』として登載して組合員に配布し、ついで、臨時本部委員会を開いて右『当面の春季闘争について(案)』を可決・決定するとともに、更に、七四春闘における都教組としてのたたかいの基本的態度等に関する『七四春闘勝利のために(都教組第一次案)』をとりまとめ、同年一月下旬ころの新聞都教組に登載して組合員らに配布した。こうして……七四春闘へむけて、ストライキ戦術を含む闘争方針を基調とする職場討議を組織的に進めていつた。」と認定、判示している点(原判決書I。一〇頁から一一頁)を批判し、原判決が本件ストにつき、昭和四九年一月から、しかももつぱら都教組本部の主導に基づいて取組みが行われた如く認定しているのは誤りである、すなわち、都教組の本件ストに対する取組みは、昭和四八年六月の都教組第五六回定期大会で、七三春闘の総括とともに、七四春闘を組合員の要求、話合いによつて組織する方針が決定されたことに始まり、同年九月の本部委員会において、職場・分会での取組みを基に七四春闘の要求と戦術を決定することとされ、以後、各職場、分会で数次にわたる討議やアンケートが行われた結果、昭和四九年三月の臨時大会で、職場から選出された一、二〇〇余名の代議員による討議により、全一日ストの方針が決定されたものであるから、原判決のような認定は誤りであり、それが罪となるべき事実の認定及び違法性阻却事由存否の判断の誤りをも導いている、というのである。
しかしながら、所論指摘の原判決の判示部分は、被告人らの罪となるべき事実を判示する前提として必要な範囲内において、都教組本部の本件ストに至る組織的活動の経過を判示したものであり、弁護人主張のような経過が判示上省かれているからといつて、事実認定に誤りがあるというのはあたらず、原判決挙示の関係証拠によれば、原判示のとおりの経過が認められるのであるから、原判決に何ら事実の誤認はなく、弁護人の主張は理由がない。
2 被告人増田の「あおりの企て」について
弁護人は、原判決が被告人増田の「あおりの企て」として判示している部分、すなわち、<1>被告人増田が、第五七回都教組臨時大会に臨み、都教組さん下小・中教職員らをして四月中旬に、第一波半日、第二波全一日の同盟罷業を行わせること、組合員に対し同盟罷業実施体制確立のための説得慫慂活動を実施することなどを決定した、と認定し(原判決書I第二、一。二四頁)、あるいは、右臨時大会においては、「職場へのオルグ活動を積極的に展開し、学習会、討論会を積極的に組織し、その他闘争体制の確立をはかることなどをも決定し、これらの説得慫慂活動にむけてその大綱を定めて準備、計画した」と説明している点(原判決書IV第三、四、1。一七二頁)、<2>被告人増田が、「指示第八二号を書面で発出して第五七回臨時大会の同盟罷業実施体制確立を指示した」と認定し(原判決書I第二、一。二四頁から二五頁)、あるいは「指示第八二号の内容は職場会、学習会を組織し、新組合員をも含めた職場体制と確認署名によるスト体制の確立等の諸点にあり、前同様の意味で計画準備にあたる」としている点(原判決書IV第三、四、1。一七三頁)を批判し、都教組においては上部組織によるオルグ等は行われておらず、他方、組合員らの本件ストに対する取組みの中心は職場、分会における組合員間の学習・討論等にあつたのであるから、これらの学習討議等を決定し指示したことをもつて闘争体制確立のための説得慫慂活動と目し、「あおりの企て」にあたると認定しているのは事実誤認である、と主張する。
しかしながら、都教組第五七回臨時大会において可決された「七四春闘方針に関する件」の内容の主なものは、七四春闘の統一ストに積極的に参加し、春闘決戦段階の山場である四月中旬に第一波半日、第二波全一日のストライキを実現すること、そのため、組合員による批准投票を行い、闘争基金を徴収し、批准投票成功をめざしてのオルグ活動を積極的に展開するとともに、職場学習会、討論会等を積極的に組織し、もつて闘争体制の確立、強化をはかる、というものであり、また、指示第八二号の「春闘当面のとりくみについて」と題する書面の内容も、右第五七回臨時大会の決定に基づき、当面の取組みとして職場会、学習会を組織し、批准投票を成功させること及び新組合員等をも含めた職場体制と確認署名によるスト体制の確立等を指示するものである。そして、被告人増田の「あおりの企て」が成立するのは、このようなスト体制の確立をはかり、ストに関する指令の発出・伝達ないしこれに準ずる行動要請等の慫慂活動を計画準備した点にあり、個々のオルグ活動、職場学習会・討論会等を計画したことに基づくものでないことは後述のとおりである(四、3、(三))。したがつて、これらオルグ活動等の実情や性格を論じて事実誤認を主張する所論は異る前提に立つものとして判断するまでもないことである。
もつとも、もし所論どおりの事実関係であれば、被告人増田においてオルグ活動等について決定・指示したことは「あおりの企て」の認定に関し全くの余事にあたることになるのであるが、果してそうであるかという意味で所論の当否に言及しておくと、所論はまず、当時都教組においてはオルグ活動(上部組合役員が下部組織に直接おもむく形態で教宣等の諸活動を行うことを指すものと解される。)は行われていなかつたという。しかしながら、もしそれが全く不必要であれば、右臨時大会の重要決定として敢えて「オルグ活動の積極的展開」を掲げる必要はなかつたであろうし、事実、原判決挙示の原審野見山捷昭の証言によれば、批准投票の成功に向けて支部から分会に対しオルグ活動が企画実施された地区のあつたことがうかがわれる。したがつて、本件スト当時、都教組においてはオルグ活動は行われていなかつたとする当審における都教組関係者らの証言は必ずしも都教組全体に共通する事象を語つているとは思われない。(なお、批准投票後のこととして符号四三三号、四六八号は当時分会オルグが行われていたことを証するものといえよう。)また、所論は、学習会、討論会等に関し上記のように主張し、これらの集会は分会等の下部組織が自主的に企画して行うものであつて都教組本部が定めた大綱にしたがうものではない(反論書一四頁)ともいう。しかしながら、現に都教組本部が学習会、討論会の組織化を図つていること前掲のとおりであるし、またこれらの会合は一般組合員の自発的発意によつて行われたものというより、むしろ幹部の主導によつて開かれ、ストライキ体制の確立をめざす性質のものであつたと認められる。したがつて、これらのオルグ活動や会合の組織化を決定し、ないし指示することは、ストライキに対する現実的危険性を帯びさせる重要な要素の一つたることはいうまでもなく、いずれにせよ、所論のいう事実関係は認め難いところといわなければならない。
3 被告人増田の「あおり」について
弁護人は、原判決が罪となるべき事実として認定、摘示した被告人増田の「あおり」についての諸事実(原判決書I第二、二。二五頁以下)、すなわち、<1>いわゆる三・二九指令の下部への伝達と新聞都教組四月五日付第九八二号の配布、<2>四月三日支部長・書記長会議での右三・二九指令の確認と「七四春闘一日・半日スト行動規制」及び「七四春闘一日および半日ストを成功させるための取組みの基本」と題する文書を配布しての組合員のとるべき行動の指示並びにその伝達、<3>いわゆる四・九指令の伝達について、いずれもその外形的事実を認めながら、原判決がこれらの行為をもつて「あおり」にあたると認定、判示している点を批判し、この三つの行為の内容は「あおり」の事実を充足するものではなく、原判決は事実誤認をおかしたものである、主張する。
(一) 三・二九指令と新聞都教組について
所論は、いわゆる三・二九指令は単なるスト配置の日時決定の連絡であつて、スト指令ではなく、また都教組から下部組織へ伝達するに際しても日教組からの電報文言がそのまま伝えられたわけではなく、特に「各組織は闘争体制確立に全力をあげよ」との文言は全く除かれていたのであるから、スト遂行に対し何らの慫慂的効果もなかつた、という。
思うに、都教組本部において、三・二九電報の内容を下部に伝達するにあたつては同電報の後段部分、すなわち「各組織は闘争体制確立に全力をあげよ」との部分を省き、また新聞都教組においても一応同様の取扱いをしていること、しかしながら、三・二九電報の内容は単なるスト配置の日時連絡にとどまらず、「あおり」性のあるスト指令にあたり、都教組においてもその趣旨が下部組合員に伝達されたことは既述したとおりである(A、チ、(一)、(2) 、ハ)。したがつて、所論は失当である。
なお、弁護人は当審最終弁論において、被告人増田は、三・二九電報内容の伝達につき、<a>日教組本部役員と共謀したことはなく、また、<b>右電報内容は都教組平野一郎書記長の個人的判断により日時連絡の形態で下部に伝達されたものであるから、いずれの点からみても三・二九電報内容の伝達につき責任を負うべきいわれはないと主張し、当裁判所の職権判断を求める(弁論要旨五〇七頁)。そこで案ずるに、三・二九電報の内容は、その性質上それが都教組本部に伝えられた当時同教組委員長代行であつた被告人増田においては当然承知していたところと認められる。そして、既述(A、(一)、(3) 、イ)のように、第五回全国戦術会議後は、都教組本部においても、日教組本部からのストに関する指示・指令等があればこれを下部組織に伝達すべき態勢を整えていたことは明らかで、しかも被告人増田は、委員長代行たる地位においてかねてから本件ストの成功を強力に推進してきており叙上のような都教組本部の態勢を統括する立場にあつたのであるから、三・二九電報内容の伝達が平野書記長の手によつて処理されたとしても、これは被告人増田の指揮範囲内のことで同被告人の意思に基づくとみることができるものであつたと考えられる。したがつて、所論<a><b>の事実は肯認し難いものであり、被告人増田は三・二九電報内容の伝達につき日教組、都教組各本部役員との共謀責任を免かれ得るものではないといわなければならない。
(二) 四月三日支部長・書記長会議について
所論は、同会議で配布された原判示の「七四春闘一日・半日スト行動規制」及び「七四春闘一日および半日ストを成功させるための取組みの基本」と題する両文書はストライキ参加を呼びかける性質の指示ではなく、支部・分会におけるスト前日までの準備、当日の行動等を明らかにするものに過ぎず、事実そのまま分会員等に伝えられていない、という。
しかし、右両文書のうち後者は、本件ストに対する都教組としての取組みの基本的姿勢を明示し、大綱的に、支部及び分会がとるべき事前の準備及びスト当日の行動の徹底方を期したものであり、前者は、全組合員に対し、「基本の行動」として「四月一一日は全一日のストライキ、四月一三日は勤務時間開始時刻より四時間のストライキに入り、支部(支部内ブロツク)毎に開催される要求貫徹集会に自宅から直接参加」すべきことを求め、そのため支部・分会において、スト前日までに準備すべき事項及びスト当日とるべき行動の大要を具体的に指示したものであつて、すでに三・二九指令発出後の事態のもとで、かかる会議を開催のうえ、右両文書配布の所為に出たことは、被告人増田の「あおり」行為の一内容となるに足りるものである。そして、この趣旨が組合員多数に伝えられたことは原審における多数の証人の証言によつて明らかとなつているので、所論は採用できない。
(三) 四・九指令について
所論は、四・九電話は春闘情勢連絡の一つであつて、都教組としては日教組からその連絡を受け、原判示のように「即日さん下に伝達することを決定」した事実はなく、また伝達もしなかつた、という。
思うに、この四・九電話の都教組における取扱いについては、すでに被告人槙枝関係について詳述したとおりである(A、チ、(三)、(2) )。すなわち、都教組本部において四・九電話の内容を下部に伝達したことの証明はない。したがつて、原判決「罪となるべき事実」第二、二、3(二七頁)の点は事実を誤認したものというほかないのであるが、しかし、この点は、被告人槙枝関係で説明したとおりの理由をもつて、判決に影響を及ぼすべき誤認ではなく、原判決破棄の事由に該当しない。
所論は結局において採用できない。
三 控訴趣意書第三章(憲法解釈適用の誤りの主張)について
所論は要するに、地公法の争議行為禁止規定(同法三七条一項)あるいは違法な争議行為を「あおる等の行為」に対する刑事罰規定(同法六一条四号)は、憲法二八条、一八条、三一条等の関係規定に違反し無効であるのに、原判決が地公法のこれらの規定を合憲と判断して本件に適用したのは、憲法の解釈適用を誤つた、と主張するものである。
ところで、右各規定の合憲性については、すでに最高裁四・二五判決、同五・二一判決、同五・四判決の宣明するところであつて、原判決はこの系譜に従つて原審弁護人の違憲論を排斥したものである。そして、当裁判所も右最高裁判例を尊重し、したがつてまた原判決の結論を是認すべきものと考えるのであるが、この問題は本件における最大の論点として弁護人の力説するところであるので、以下それぞれの主張点につき当裁判所の見解を述べる。
1 「最高裁判例服従論の誤り」の主張について
(一) 弁護人は、原判決が、公務員等の争議行為禁止規定及び違法な争議行為の遂行についての「あおり等の行為」に対する刑事罰規定の合憲性に関し、前記四・二五判決以来相次いで示された最高裁の合憲判断は、すでに確立された強固な判例と認められるとしたうえ、審級制をとる訴訟制度のもとにおける最高裁判例のもつ判例統一機能や法的安定性の要請の見地からみて、「最高裁大法廷による判断、しかもその度重なる同旨の判断内容は、実務上最も尊重され、下級審に対し、強い事実上の拘束力を認められなければならないと考える」として、格別な理由、すなわち右最高裁判例に明らかに不合理な点があるとか、判例が正当性の根拠としている事情に大きな変動を生じているとか、具体的な事例に判例上の解釈をそのまま適用すると著るしく不当な結果をもたらすとかの理由がない限り、下級審としては最高裁判例を尊重し、これにしたがうべきものであると判示した点(原判決書IV第二、一。六六頁から八三頁)を批判し、これは最高裁判例の「尊重」の域を超え、殆んど稀有の例外的事由などがない限り、これに「服従」すべしとする謬見であるのみならず、前記最高裁判例はしかく強固に確立されたものでもない、という。
思うに、弁護人の右主張は結局において原判決の憲法解釈の「態度」を論難するものであつて、原判決の法令解釈適用の誤りの有無を審査する見地からは、その単なる縁由に属することとして特に判断を加えるまでもないことである。しかし、この最高裁判例の下級審に対するいわゆる「拘束力」の問題は、原審はもちろん、また当審においても、本件事案を裁く姿勢の基調に関係するものであるから、敢えて一言しておく。
いうまでもなく、裁判官はその良心にしたがい独立してその職権を行い、憲法及び法律にのみ拘束されるものである(憲法七六条三項)。したがつて裁判官は適切妥当な裁判を行うため、常に憲法及び法律の「正しい」(あるべき)解釈適用に心がけなければならない。ところで、他方、最高裁判所は制度上国の裁判所として最終的、統一的、有権的法解釈を下すものである。もし原裁判がこれと異る法解釈をとつていたとすればそれは誤りであることが有権的に確認されるものであるし、その事案についてではあるが、最高裁判所のとつた法解釈はその時点において唯一の「正しい」法解釈というべきものなのである。かくして、最高裁のとつた法解釈、殊に最高裁判例と称されるものは、通常の場合、同種事案について最高裁判所が将来下すであろう法解釈を与えているものであり、これにしたがわない場合には公的に誤つたものとされる高度の蓋然性のあることを示すものである。したがつて、下級裁判所が憲法及び法律を「正しく」解釈適用するについては最高裁判所が将来下すであろう判断を教示する判例を尊重し、通常の場合これにしたがうのは当然であつて、その意味において事実上の拘束力を受けるものと解される。ただし、既存の最高裁判例が常に憲法及び法律の「正しい」解釈を示しているとは限らないし、さればこそ判例の変更も法によつて予定されているところでもある。そこでもし、既存の判例が何らかの理由で「正しさ」を失つているような場合、あるいはこれを形式的にいえば、判例の変更が予想されるか、またはその変更を求めるべき相当な理由がある場合には、下級裁判所としては判例と相反する判断をなすことも憲法の本則上当然のことである。原判決の考えもこれと異るところはないと思料され、憲法及び法律の「正しい」解釈適用をなすについて、その判示する例外的事由がない以上は確立した最高裁判例にしたがう、としたものであつて、最高裁判例に無条件に「服従」するというものでは決してないのである。
(二) 一方、所論は、四・二五判決以来の公務員等の争議行為全面禁止規定及び争議行為に関する罰則規定を合憲とする最高裁判例は余りにも問題が多く、原判決のいうように強固に確立したものとはいい難いとするが、四・二五判決につづく五・二一、五・四各大法廷判決の判旨は容易に覆えされぬ安定度を示しているとみられる。特に、争議行為全面禁止規定の合憲性の説明として、その後の小法廷判決(昭和五二年一二月二〇日第三小法廷判決・民集三一巻七号一一〇一頁、同五三年三月二八日第三小法廷判決・民集三二巻二号二五九頁、同五三年七月一八日第三小法廷判決・裁判集民事一二四号四一三頁((判例タイムズ三六九号一六〇頁))、同日第三小法廷判決・民集三二巻五号一〇三〇頁、同五六年四月九日第一小法廷判決・民集三五巻三号四七七頁)においてはいずれも四・二五判決または五・四判決が肯定的に引用されており、罰則規定についてはその後これに触れた最高裁判例はないが、五・四判決までの判例の指導力に変化があつた徴候もなく、結局これら一連の判例が強固に確立していることを疑う余地はない。したがつて、当裁判所としても、このことを常に念頭におきつつ、以下考察を進めるものとする。
2 「勤務条件法定主義・財政民主主義論の誤り」の主張について
弁護人は、原判決が、公務員の勤務条件は、勤務条件法定主義と財政民主主義の原則によつて議会によつて決定されることを前提として、大要「<1>私企業の労働者と違つて、公務員の場合は、団体交渉による決定という方式が当然には妥当せず、争議権も団体交渉の裏づけとしての本来の機能を発揮する余地に乏しい、という大きな相違があるので、公務員の労働基本権を私企業労働者のそれと同じに扱うことができない、<2>公務員の争議行為は議会に対する圧力であり、しかも公務員の職務の公共性と勤務条件の保障とによつてその圧力が強い圧力となりうることから、公務員の争議権は制限を受けることもやむ得ない、弁護人は公務員の争議行為は議会に対するものではなく議会に原案を提出する行政当局に対するものであるというが、その違いは観念的なものであつて、結局は議会に対する圧力となる。」と述べている点(原判決書IV第二、二、2。九六頁から一一〇頁)を批判し、およそ勤務条件法定主義・財政民主主義の観点から公務員等の団体交渉権、ひいて争議権を憲法の保障の埓外におこうとするのは誤りであつて、前者は憲法で定められた民主主義の原則として、また後者も憲法に保障された重要な基本的人権として、ともに強く尊重されるべく、したがつてその調和的立法は可能であるとしつつ、公務員の勤務条件の決定権は最終的には議会にあるとしても、この場合の議会の決定とは議会みずから立案して決定するのではなく、使用者たる行政当局の提案を審議決定することであるから、勤務条件についての公務員の要求、交渉、ストは使用者たる行政当局に対してなすのが当然であるし、そしてこの行政当局に対するストは、直接的にはもとより、間接的にも議会の審議権を阻害することにはならないとの理由をあげ、勤務条件法定主義・財政民主主義の原則は公務員の争議権を制限する根拠となるものではない、旨主張するものである。
(一) ところで、最高裁五・四判決は、「公務員及び三公社その他の公共的職務に従事する職員は、財政民主主義に表れている議会制民主主義の原則により、その勤務条件の決定に関し国会又は地方議会の直接、間接の判断を待たざるをえない特殊な地位に置かれて(おり)……そのため、これらの者は、労使による勤務条件の共同決定を内容とするような団体交渉権ひいては争議権を憲法上当然には主張することのできない立場にある。」とし、したがつて、これら公務員等に対し、いかなる形態の団体交渉権ないし争議権を付与するか、あるいはこれらを否定するかは憲法問題ではなく全く国会の立法裁量に属する事項と説く。
たしかに、いわゆる財政民主主義(憲法八三条)、勤務条件法定主義(同法七三条四号)と、勤務条件の共同決定を内容とする団体交渉権とは両立しない性質のものとも思われる。しかし、財政民主主義・勤務条件法定主義の原則はかなり幅のある概念であつて、その具体的あらわれ方は多様である(前掲最高裁昭和五六年四月九日第一小法廷判決の中村裁判官補足意見参照)。他方、憲法二八条の「団体交渉権」とは必ずしも右五・四判決のいうような「共同決定」を内容とするものに限られず、労働者が使用者側と労働条件その他労使関係の事項について合意の形成を目標として交渉を行う権利を含むと解するのが適当のようである。そして、公務員等も同条にいう「勤労者」であるとすれば、財政民主主義・勤務条件法定主義と公務員等の労働基本権との関係については、いずれも憲法上に根拠をもつものとして互いに調和的に理解することが望ましいし、それはまた可能であろうと思われる。すなわち、前者は後者の制約原理としてはたらくという形で両者を両立させ、その調和の方式は国会の立法裁量にまつと理解するのである。この場合、公務員等の労働基本権の制約のあり方としては、非現業公務員、現業公務員、公社職員、それ以外の公共的職務に従事する職員等それぞれの性格に応じ程度を異にする方式がとられ得るのはもちろんであるが、いずれにせよ、前記最高裁五・四判決の説明とはやや異り、その制約にはつねに憲法二八条の保障との関係での配慮を必要とするものと考えたい。
(二) そこで、このような見地において、当面の対象である地方公務員に対する争議権の全面否定条項たる地公法三七条一項の合憲性について考察すると、地方公務員の職務は地方公共団体の住民全体の利益のため円滑かつ安定的に遂行されるべきものである。他方、その給与は地方公共団体の税収等の財源によつてまかなわれる。したがつて、地方公務員の給与その他の勤務条件は、法律の定める基準(地公法二四条ないし二六条、一四条等)に則り、なお当該地方公共団体における具体的な財政的、政治的、社会的(このなかには地域の特性、住民感情等の要素も当然含まれよう。)諸事情、その他公務の公正かつ能率的な運営に貢献できるようにするための諸条件等に対する各般の合理的な配慮に基づき、立法機関(議会)における民主的論議により条例または予算の形で決定するのが政策上適切とされるのである。このことは、一般私企業が利潤追求を目的とし、また生じた利潤の分配という点を基礎に、従業員の給与その他の勤務条件を決定しようとするもの(労使自治の原則)とはその構造を大いに異にしている。それ故、この相違から、私企業における労働者が使用者に対し、労働条件その他の待遇に関し、労働協約等の合意を目標として交渉する団体交渉権と全く同様な権利、特に給与その他の勤務条件決定についての団体交渉を行う権利が地方公務員に対し認められないのもやむを得ないといわなければならない。してみると、この団体交渉権を補完するための争議権も制限されざるを得ない。これを認めるとすれば、争議行為の圧力によつて議会の自由な審議が妨げられ、その決定がゆがめられるおそれがあるからである。しかも、公務員の争議については、その圧力たるやきわめて強力なものとなる可能性が高い。すなわち、第一に、その職務が公共的(次の3で改めて取り上げる。)、独占的、非代替的なものが多いため、公務の停廃により地方住民に重大な障害をもたらし、またはその危惧を生ずる。第二に、いわゆる市場の抑制力を欠くため、労働者にとつては倒産、失業の心配がなく、歯止めのない争議に走り易い。したがつて、このような実際的悪影響をも考えれば、地方公務員については争議権を否定すべきことは殆んど必然的なことといえよう。ただし、この公務員に対する団体交渉権及び争議権の否定は、前記のように憲法二八条の保障との関係で無条件のものであるべきではない。これに代わる、いわゆる代償措置が実効性をもつて存在することが必須のことと考えられる。地公法が職員団体の交渉制度(特に五五条。書面協定も認められる。同条九項、一〇項)、人事院勧告制度と同趣旨の諸規定(一四条、二六条等)を設けているのは、まさにこの要請にこたえるためのものと理解されるべきである(後述4、(二)参照)。
(三) 以上の説明に関し、弁護人の所論は、地方公務員のストは議会に対するものではなく、行政当局に対するものであることを強調し、議会に対する不当な圧力となるものではないという。しかし、今日の議会制度においては、議会と行政当局との間に密接な関係が存し、行政当局に対する圧力はやがて議会に対する圧力となること、原判決が詳細説くところであつて(原判決書一〇二頁から一〇八頁)、その立論に特に付加すべきものはない。
(四) かくして、当裁判所としては、弁護人主張の地方公務員の労働基本権と財政民主主義・勤務条件法定主義との調和論には一部賛意を表するものの、それが故に地方公務員の争議全面禁止を違憲とする主張に傾くものではない。すなわち、財政民主主義・勤務条件法定主義は、公務員の労働基本権(とくに団体交渉権・争議権)を民間のそれと異る制約を課する第一の根拠となるものであり、他の理由(職務の公共性、争議における市場の抑制力の欠如)とともに、及び実効性ある代償措置が具備されていることと相まつて、争議行為禁止の合憲性を基礎づけると解するからである。そして、このような見解は、公務員の団体交渉権及び争議権と憲法二八条との関係、したがつてまた代償措置が同条に直接由来するか否かについての理解の差を別にすれば、公務員の争議権否定の実質的理由に関する限り結局最高裁五・四判決が同四・二五判決を引用しつつ説示したところをほぼ踏襲するものというに妨げない。いずれにしても、原判決が、財政民主主義・勤務条件法定主義が公務員の争議権制限の理由として納得できる根拠をもつているとなす点は十分是認できるところであつて、論旨は採用できない。
3 「職務の公共性論の誤り」の主張について
弁護人は、最高裁判例が公務員の争議権を制限する理由の一つとして掲げている「職務の公共性」による制限について、原判決がこれを十分な理由があるとして支持している点(原判決書IV第二、二、1。八五頁から九六頁)を批判し、公務員にも憲法上労働基本権が保障されている以上、かりに職務の公共性という理由でこれが制限を受けることがやむを得ないことがあるとしても、その場合は職務の公共性の程度に応じたものでなければならず、かつ、全面一律禁止とそれ以外の制限を区別する必要があり、そして、争議権の全面一律禁止は、その行使によつて他者の生存権、とりわけ、国民の生命・健康・安全及びこれを維持する上で必要不可欠な財産に重大な障害をもたらす危険が恒常的に発生する場合であつて、この危険を防止するために禁止以外の他の手段ではまかなえないときに限られるべきであるから、これに該当する警察・消防等は別として、その他の多種多様なあらゆる地方公務員の争議行為を全面一律に禁止するのは憲法二八条に違反する、というのである。
地方公務員の職務が多種多様であり、公共性の程度も一様でないことは所論のとおりであり、原判決も同一認識に立つていることは明らかである。しかし、地方公務員は地域住民全体の奉仕者たるべきである。そして、このことのほか、次の点は強調されなければならないことである。すなわち、地方公務員の職務は地域住民の全体、ひいては国民全体の生活上の利益に密接につながつた公共性を有しているため、その職務は「絶え間なく、しかも常に円滑に遂行される状態を安定的に確保しておきたいとの要請がある」こと(原判決書八七頁、八八頁)である。この点は地方公務員の職務がいわゆる統治作用に属するときには最も顕著なことであるが、いわゆる住民サービスに属するものにあつても余り変らない。もちろん、この後の場合、職務遂行の瞬時の中断をも認められないというほど強い要請ではないとはいえ、納税者たる住民の側の願望意識に強く裏うちされた要請ということができる。したがつてこの職務の公共性に根ざす安定性・継続性の要請は当然に地方公務員の争議権を禁止する一理由となり得る。もつとも、この一点だけから地方公務員の争議権の一律全面禁止を導き出すのは憲法二八条との対比においてやや困難であろう。されば、原判決はこの点を含め、いくつかの理由が競合した「複合的構造」というのであるが、当裁判所も、地方公務員の争議権を禁止する理由は、結局において最高裁五・四判決の指摘するところと同旨の理由、すなわち既述の財政民主主義・勤務条件法定主義に由来する事由、公務員関係争議における市場の抑制力の欠如の事由及び職務の公共性(安定性・継続性)の三点に要約できると考える。したがつて、所論が職務の公共性の面だけから、争議権の全面一律禁止を所論指摘のような警察、消防等のごく例外的一部に限られるべきであるというのには同意できない。
4 「代償措置論の誤り」の主張について
(一) まず、弁護人は、原判決が、最高裁五・二一判決の代償措置に関する判旨につき、同判決の趣旨も代償措置を講じさえすれば安易に労働基本権を制約できるというものではないと解されるとしたうえ、現在の代償措置制度が争議行為禁止に見合うものとして十分なものといえるかどうかを制度的な面だけでなく、実際上の運用実績をもあわせて検討を加えた結果、「現時点においては、右の最高裁判決が、地方公務員についての代償機関についても問題がないではないけれども、なお、中立的な第三者的立場から公務員の勤務条件に関する利益を保障するための機構としての基本的構造をもち、かつ、必要な職務権限を与えられて、制度上地方公務員の労働基本権の制約に見合う代償措置としての一般的要件を満たしているものと認めることができると判示している点も、納得できないものではない。」として、これを支持している点(原判決書IV第二、二、3。一一〇頁から一二三頁)を批判し、最高裁五・二一判決の代償措置論は、代償措置を設けることにより、安易に公務員の労働基本権制約を許容する危険性があり、この点についての原判決の判断には誤りがあるとするほか、原判決は、合憲的な代償措置となり得るためには、調停・仲裁機関が完全に公平な第三者的機関の実質を保ち、かつ、その機関の調停・仲裁手続のあらゆる段階で、労働者も当事者として参加することが制度的に保障され、裁定結果が使用者・労働者の双方に対して拘束力を有するという要件が必要であるのに、これを欠く現行制度の代償措置を合憲として肯認しており、また、公平委員会が給与勧告権を有していないことに全く目をつぶり、さらに、代償措置における制度面と運用面とを混交している等の点においてその判断を誤つている、と主張するものである。
(1) しかしながら、原判決が、最高裁五・二一判決の代償措置に関する説示部分は代償措置の問題性にかんがみその必要性を特に強調したにとどまるとした判断は、右最高裁判決の判文の理解のしかたとして格別誤つているとは思われない。
(2) もつとも、最高裁五・四判決は、公務員等に対しては憲法二八条の争議権の保障はないとし、したがつて代償措置というのは本来保障されている争論権を奪つた代償としての措置ではなく、「生存権擁護のための配慮」による立法措置と解しているようである。しかし、当裁判所としては、既述のとおり、財政民主主義・勤務条件法定主義と労働基本権との調和的解釈は一応可能と解し、ここでいう代償措置とは公務員の争議権を奪うことに見合う措置として憲法二八条に直接由来する重要な意義をもつと考えるものである。
そこでこの観点から、現行地方公務員に関する代償措置を瞥見するに、地公法二四条(給与、勤務時間その他の勤務条件の根本基準)、二七条ないし二九条(分限、懲戒、降任、免職、休職、定年等の身分保障)、七条ないし九条(人事委員会または公平委員会の設置、権限、構成)、二六条(給料表に関する報告、勧告)、四六条ないし四八条(勤務条件に関する措置要求)、四九条ないし五〇条(不利益処分に関する不服申立)等がこれに該当するとされるものと考えられるところ、この制度は地方公務員の労働基本権の制約に見合う代償措置として、一応、十分条件を具えていると認められる。たしかに、地方公務員に関するこれらの制度は最高裁五・二一判決もほのめかしているように国家公務員における人事院制度により弱体とみられるし、立法論としてはなお考慮の余地がないではないであろう。しかし、代償措置制度は要するに争議権に代わる制度である。労働者は争議権が付与されたからといつて常に賃金その他の勤務条件についてみずからが最も満足する結果が得られるわけではなく、対使用者との関係で相対的な形で自得せざるを得ない場合もあるのである。したがつて、地方公務員における代償措置も職員の要求を完全に充足する程度のものまで保障されている必要はなく、労働者にふさわしい生活利益を擁護し得るものであること、より具体的にいえば、他の労働者、特に国の職員や民間事業の従事者の平均的な賃金その他の勤務条件と大局的にみて懸隔のない程度のものを保障する制度が確立されておれば足りるというべきである。現行制度はこの意味においてそれが適切に運用される限り、地方公務員の生活利益を擁護し得るに足る制度と目することができるものと考える。(なお、教育公務員については、教育公務員特例法((とくに、二五条の二、三、五等))、国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法、学校教育の水準の維持向上のための義務教育諸学校の教育職員の人材確保に関する特別措置法等によつて各種の優遇措置が講じられている。)
もちろん、これらの代償措置は、所論の指摘する要件ないし審査基準を完全に満たしているものではない。しかし、その要件ないし審査基準は、ドライヤー報告その他ILO関係諸機関の報告、意見等を根拠とするものであるが、ILO関係諸機関の見解は、労働者の利益促進のため国際的立場からかなり理想的(努力目標的)なものを指向している部分も少なくないので、それぞれ国情や現実性に応じた変容修正が必要と思われ(後述7末段参照)、したがつてまた所論指摘の要件ないし審査基準というのも問題を少なからず含むものである。たとえば、調停、仲裁がわが国の非現業関係公務員制度に十分なじむのかどうか、その裁定に拘束力を認めることと議会民主主義とをいかに調節するのか等々。だが、それはそれとしても、わが国の国家公務員における代償措置制度の根幹をなし、また地方公務員におけるそれにも多大の影響力をもつ人事院勧告に、国会・政府に対する拘束力を与えられていないことがこれまでその機能をかなり弱めてきたことも否定できない。すなわち、本件以前のかなり長い期間同勧告の実施時期の繰下げが続いていたものであり、また近時(昭和五四年以降)引き続き同勧告の不完全実施ないし凍結という公務員にとつて不幸な事態が生じている。そこでこのような実情に照らし、現行制度は代償措置制度としては一種の構造的弱みをもつ欠陥法制と論ずる見解も生ずるゆえんである。しかし、この点については、むしろ次の如く考えるのを妥当としよう。
すなわち、上述のように、人事院勧告は憲法二八条に基づく争議権を奪うことに見合う代償措置なのであつて、これを誠実に実施しないことは違憲状態を招きかねないものであるから、憲法九九条により憲法尊重擁護義務を負う国会及び政府としてはこれを十分尊重し真摯に実施することに努めなければならないものである。このことに縷言の要はあるまい。とはいえ、現実には遺憾なことながら、人事院勧告が完全には実施されず、軽視または無視されて代償措置制度が本来の機能を果たさずその実効性を失うような事態の生ずることも想定されないではない。そこでもし、かりに勧告をそのまま実施しないことが、国会及び政府側において真に誠実に法律上及び事実上可能な限りのことを尽くしたうえのことでやむを得ないと認められる場合は別として、右のような事態に立ち至つたときには、国家公務員としては、この制度の正常な運用を要求して相当と認められる範囲を逸脱しない手段態様で争議行為に出ることは、例外的に、憲法上許容されるものと解すべきであろう(最高裁四・二五判決の岸・天野裁判官追加補足意見、同五・二一判決の団藤裁判官補足意見参照)。このように解してはじめて人事院勧告を根幹とする現行代償措置制度は憲法上の制度としてその位置を全うし得るものと思われるからである。
地方公務員の場合についても同断である。
したがつて、当裁判所は、公務員の争議禁止をきびしく求める以上は、代償措置の履行もきびしく要請されるものと考え、右のような例外をも肯認しつつ、地方公務員に関する上掲代償措置の各制度の合憲性を肯定するものである。
(3) なお、所論は、原判決が、代償措置制度については「制度的、抽象的な面だけで評価されるものではない。むしろ、実際上の運用実績と合せて総合的にみることが必要」と判示したことに対し、これは制度面と運用面とを混交していると非難するのであるが、原判決は、「法制上、代償措置として定められているところは、一般的要件をそなえた制度に達している」と判示したうえで、ただ制度上の欠点等もあるので、その欠点がどの程度現実化、顕在化しているかを検証すべく「運用実績」に言及し、現状においてはその欠点は実害をもたらす危険は生じていないとして最高裁判例を支持したものと認められるので、所論の非難はあたらないというべきである。
いずれにせよ、代償措置に関する所論はすべて認容できないことに帰する。
(二) 次に、弁護人らは、原判決が「異常インフレと不十分な代償措置下でのストライキは適法であるとの主張について」の項(原判決書IV第四、一。一八三頁以下)において、原審弁護人のいわゆる適用違憲の主張、すなわち、本件ストは、異常インフレによる賃金の目減りというような急激な経済的事情の変化に対し、人事院・人事委員会等が実際上有効に機能することができない状態のもとで行われたものであるから違法とはいえず、これに地公法六一条四号を適用するのは違憲である旨の主張に対し、本件スト当時代償措置は本来の機能を発揮する方向へ向けて運用されていたのであり、本件ストは結局、代償措置本来の機能回復を図ろうとするものではなく、これとは別個の新しい労使交渉による賃金決定方式に移行していこうとするものであつたからその主張は採用できない、とした点を批判し、いわゆる政労交渉、そしてこれを実効あらしめるためのスト配置があればこそ人勧制度は漸く代償措置の機能を果たし得たのが実態であり、本件ストもまさにこれを意図したものであつたと強調したうえで原審における右主張を反復している。
そこで、関係証拠によつて、昭和四〇年以降の人事院勧告の実施状況をみると、給与改定の内容は勧告どおりであつても、その実施時期につき人事院が五月一日としたのに対し、実際の実施は、同四〇年、四一年は九月一日、同四二年は八月一日、同四三年は七月一日、同四四年は六月一日と年々繰り上り、同四五年に勧告どおり五月一日となつた。そして同四七年八月はじめて実施時期を四月一日とする勧告が出され、かつこれが完全実施され、この状態は同四八年も引きつがれ、一応定着した状態になつた。しかるに、同四八年後半から同四九年にかけて異常インフレがおこつたのに対応して、人事院は同四八年一二月、年度末手当(〇・五か月分)のうち〇・三か月分を同年一二月に繰り上げて支給すべき旨の意見の申出を行い、それが実施され、さらにその復元措置として本件スト直前の翌四九年四月四日、年度末手当として改めて〇・五か月分をも支給すべきことを勧告し、かつそれが実施された。また、当時、近い将来に給与の引上げが行われることを見込んでの暫定的給与の支給問題がおこり、その実現は本件スト後に持ち越されたが、五月末に至つて人事院の勧告に基づくものとして一〇パーセント引上げを内容とする給与の暫定支給も行われた。さらに、人事院は、同年七月二六日、四月一日に遡る給与改定を勧告しこれも完全実施された。以上のような状況にある。他方、地方公務員についての各年度における人事委員会勧告とその実施もほぼ同様に推移しており、また同四八年から同四九年にかけての年度末手当〇・三か月分の繰り上げ支給、その復元措置、暫定的給与の支給、給与の本支給の関係も同じである(ただ、東京都のみは国と歩調をやや異にしたが、実質的差異はない)。そして以上のような給与改善の結果は、いずれの段階においても、国家公務員にせよ、地方公務員にせよ、民間基準と逕庭のあるものではなかつたと認められる。(なお、同四九年四月当時における地方公務員の給与の実情につき、原判決書一九三頁。そして教員については、同四九年二月二二日いわゆる人材確保法が成立し、東京都を除く他の道府県とも、人事委員会の勧告に基づき、三月中に、一月に遡り平均九パーセントの給与引上げが実施され、東京都においては他職種との調整のため本件スト後の六月に、実質的には他の道府県と大差ない六・九パーセントの給与引上げが実施され、このように、教員給与については一般地方公務員以上の優遇措置が実現され、または実現が期待される状況にあつたことをも参看されるべきである。)そうしてみると、本件ストの前後を通じ、異常な物価上昇、実質賃金の低下という事態に対し、その法的手続に相当期間を要するというやむを得ない制約下にありながら、国家公務員についての人事院勧告による給与法の改正にならい、地方公務員についても所要の措置が比較的迅速にとられ、代償措置制度が本来の機能を果たしていたと認められるのであるから、これと同旨の原判示は正当といわなければならない。
もつとも、弁護人は、このような人事院勧告制度運用の推移はストを背景にした公務員労働者の政労交渉の結果によるものであるという。たしかに、昭和三五年二月公務員共闘が結成され、賃上げの統一要求が政府に出されるようになつたし、同四〇年から公務員共闘はストライキを構えて賃金闘争を行うようになり、政府・人事院との交渉を進めることを定着させた。したがつて、この賃金闘争と前記人事院勧告制度運用の推移とは密接な関係があつたことは否定できない。すなわち、これを公務員労働者側から見れば、人事院は政府の意向に押されて主体的な勧告を行うことができず、また政府は諸種の理由を掲げて「人勧値切り」を行う等いずれも不誠実な態度を示し続けているので、ストを配置したうえでこのストの威力による政労交渉に期待せざるを得ないとし、そして人事院勧告の完全実施にまでこぎつけたことはこの公務員労働運動の成果であると認識するような状態であつたと認められる。このことを今少し客観的にいえば、このような公務員共闘の動きは、これについて人事院あるいは政府としては到底無関心ではあり得ず、殊に国民生活に大きな影響を及ぼすストの回避ないし短期収拾を図るためには、ある程度の措置をとらざるを得ない状態に追いこまれ、結果的に人勧制度が軌道に乗ることを促進する作用を示したものということになろう。しかし、このような現実ではあつても、現行制度の運用上これを無条件に評価することはできないと思われる。なるほど、昭和四七年の人事院勧告の四月実施に至るまでの段階で、人事院あるいは政府の態度に代償措置制度を守る十全の姿勢があつたかは問題にする余地がなくはなかつたであろう。しかし、さればといつて公務員労働者側が法禁のストを背景に、人事院勧告に先立ち政府等の譲歩を迫る態勢をとつたことが果してやむを得なかつたものであるかどうかは十分検討されるべき事柄である。けだし、当裁判所は、代償措置制度の運用と公務員の争議行為との関係については上述((一)、(2) )したところ、すなわち最高裁四・二五判決における岸・天野裁判官追加補足意見と同旨の立場に立つ。したがつて、公務員労働者の構えたストライキが、代償措置が迅速公平にその本来の機能を果たさず実際上画餅にひとしいとみられる事態に対応するものであつたか、また、相当と認められる範囲を逸脱しない手段態様であつたかをよく見究わめる必要があるからである。そして同様の意味において、本件ストの当否についても入念な判断を加える必要がある。しかるに、本件スト当時代償措置制度が本来の機能を発揮していないような事態ではなかつたことは前述のとおりである。そして、すでに控訴趣意書第二章に対する判断(二、A、1)において説示した如く、本件ストは、前年七月の日教組第四三回定期大会においてその萌芽があらわれ、昭和四九年二月の第四四回臨時大会、同年三月の第五回全国戦術会議において大綱が設定された一種のスケジユール闘争とみるべきで、同年度の人事院勧告の内容とは無関係に配置されたものであつたし、またスト直前の情勢をみると少なくとも給与問題についての労使双方の対立はさほど深刻なものでなかつたと思われる。この後の点につき詳言すると、人事院勧告は本件ストの前年の昭和四八年八月には完全実施されており、その後の各種臨時措置(既述)の経緯に照らしても、また、殊に同四九年四月五日付内閣官房長官談話、すなわち、「政府は今回公労協、公務員共闘傘下組合がストを実施しようとしている事態解決のため誠意をもつて最大限の努力を払つてきたし、本日、各公共企業体等の有額回答を行う方針を了承したのもこうした姿勢を示したものにほかならず、また国家公務員の期末手当の増額等に関する人事院勧告についても早急に実施する方向で検討することをも確認した(要旨)」との談話内容からみても、同四九年度における相応の人事院勧告とその完全実施は、率直にみれば十分期待できる状況にあつたと認められる。したがつて、公務員労働者側としては給与問題に関する限りスト突入は必然的なものではなく、それにもかかわらずストに突入したのは四月一〇日における既述の閣議決定に触発されてのことであつて、春闘関係組合幹部らの不満は主として「労働基本権(スト権)問題」の処理方式にあつたと推論されるのである。してみると、本件ストを異常インフレ状態における不十分な代償措置下でのストライキであつて、代償措置を本来の形に機能させることを志向したものとみて、その正当化を試みることは甚だ不適当であり、したがつて、これに対し、地公法六一条四号を適用するのは違憲であるとの主張は到底採用できないものといわなければならない。
5 「地公法六一条四号合憲論の誤り」の主張について
弁護人は、原判決が地公法六一条四号についての最高裁五・二一判決の見解を支持し、これを合憲とした点(原判決書IV第二、二、4。一二三頁から一四六頁)を批判し、諸種の角度から違憲論を展開する。
(一) 憲法二八条との関係
所論(控訴趣意書二七五頁から三〇七頁まで)は甚だ多面的であり、要約するのは困難であるが、その基本的主張は、要するに、地公法六一条四号はすべての地方公務員のストライキの「あおり等の行為」を刑罰の対象としているが、このようなストのいわば前段階行為が刑事法上可罰的な違法性をもつと考えるについては、全体としてのスト、すなわち集団的、組織的行動であるストの総体が可罰に値いする高度の違法性を有していることが確定されなければならない、しかるに、地方公務員のストがそのような違法の程度に達したといい得るためには、その保護法益たる地方住民の利益が地方公務員の労働基本権侵害をやむを得ないとする程に重大な侵害をこうむる場合、すなわちストによる職務の停廃の結果、地方住民の生命、健康、安全が脅やかされる場合などに限られるべきである、しかし地公法六一条四号は右前提をとらず、一律に、地方公務員のストの「あおり等の行為」を処罰する態度でのぞんでいるのは労働基本権制限に伴う刑事制裁として限度を超えており、憲法二八条に違反する、というものと解される。
(1) 思うに、地公法三七条が地方公務員についてストその他の争議行為を禁止している立法趣旨はすでに説示したとおり、地方公務員が財政民主主義・勤務条件法定主義という憲法上の要請を受ける特殊の地位にあること、その職務の公共性、さらには地方公務員の争議が市場の抑制力を欠く経済的・社会的特質を有することの三点に要約され得るのであつて、同時に同法六一条四号による可罰性の根拠もまさにここに求められ、しかもこれをもつて十分と考えられる。すなわちこの場合、その保護法益を概括して表現しようとすれば所論の如く、地方住民の生活利益ということになるわけであるが、法は地方公務員の労働基本権、特に争議権をこの地方住民の生活利益と調和するように制限するのもやむを得ないとし、一定の代償措置を設けて争議行為を禁止し、その違反を違法とし、かかる違法評価に立脚したうえでその争議行為に対する「あおり等の行為」を可罰的としたものである。
ただ、このような争議行為の違法性ないし可罰性を考えるとき、必ず当面する問題として、地公法が争議行為を禁止し違法としているものの、それ自体を処罰せず、これに対する「あおり等の行為」のみを処罰する態度をとつていることの意味をいかに理解するかの問題がある。というのは、公務員の争議行為自体はそれが処罰の対象とされていないことの故に、単に民事法上違法とされ懲戒等の対象とされるにとどまり、刑事法上の違法性を基礎づけるものではないと考える立場があるからである(当審弁論要旨二六五頁)。しかし、この点は同法三七条と六一条四号とを整合的に解釈しようとするならば、公務員の争議行為自体刑事法上も違法評価を受けるものと考えなければならない。けだし、地公法が争議行為自体の刑事法上の違法性を認めていないとすれば、その共犯的行為である「あおり等の行為」に違法性を認めることはできないこととなり、同法六一条四号がこれらを処罰していることと矛盾するからである。ただ、実定法上争議行為自体が処罰されないのは、争議行為の実行にあたつては、単にこれに参加したに過ぎない者とその原動力となる指導的行為をした者との間に、反社会性、反規範性において差異があること、指導的行為の処罰をもつて争議行為禁止規定の実効性を確保することが妥当と考えられること、勤務条件の改善を求めて単に職務の提供を拒否するに過ぎない行為に対しては特段の事情がない限り刑事制裁を抑制するのが相当とされること等、憲法二八条の趣旨を尊重した立法的配慮によるものと思料される(最高裁五・四判決法廷意見第二、四、(四)参照。)。かくして、地公法六一条四号は、それ自体本来は刑事法上も違法評価を受ける争議行為自体を一応不問に付することとし、これを指導助長した違法性の高い行為のみを可罰的なものとしたのである。
このように、違法行為があればすべてが可罰的とされるものではなく、いかなる違法行為に刑罰を科すべきかは違法の程度その他諸般の要素を勘案した立法政策上の選択に属する。そして重要な基本的人権の一つたる労働基本権の制限に伴う刑事制裁は極力抑制されるべきであることを強調する所論はもとより正論である。しかし、公務員の争議行為の性格、すなわち具体的には前述の争議行為禁止の立法趣旨としてあげた諸理由に想到するとき、その可罰範囲を所論のような例外的場合にだけ限らなければならないとする理論上の根拠は殆んどなくなるのではないかと思料される。要するに、地公法六一条四号についての立法態度は冒頭所論のいかなる意味においても憲法二八条に違背することはないというべきである。
(2) 次に、所論は、公務員に対するストの禁圧法制は労使交渉の紛争解決機能を著しく低下させ、かえつてストを多発化させる等実効性が乏しいものであるから、紛争解決のための制度的整備を欠いたまま、地方公務員のストを一律全面的に処罰する地公法六一条四号は刑罰法規の合理性を欠く違憲のものである、という。
思うに、公務員のストライキ禁止をめぐつては、一方では、それは労使紛争の解決のため無益有害で実効性に乏しく、むしろ労調法の如き制度を設けるべきであるとする見解があるのに対し、他方では現行法を維持し争議行為に対する抑制措置を強化する運用を図るべきであるとする見解があるなど多様に岐れている。所論はひつきようこの立法政策論争を憲法解釈論にもち込もうとするものであつて、到底採用できないところといわなければならない。
(二) 憲法一八条との関係
所論は、地公法六一条四号が「あおり」等の争議関与行為に刑罰を科しているのは、結局個々の公務員に対し刑罰をもつて労働を強制しているものとみ得るから「意に反する苦役」の禁止を内容とする憲法一八条後段に違反する、という。
思うに、一般労働者が単に労働契約に反して就労しないという理由だけでこれに刑罰を科することは、刑罰の威嚇によつて人を「意に反する苦役」に服させるものであり、したがつて集団的不就労を実体とするストライキに対する刑罰規定が存するとしたならば、それは憲法一八条に違背する違憲の規定と考えることが同条の歴史的意義に沿うゆえんであろう。しかし、単純不就労を超える争議行為や特殊の地位にある者の争議行為までも同条の保障するところとは考え難い。特に公務員については、すでにしばしば述べてきた理由によつて争議行為を禁止し、その違反に対しては強い制裁を科すべき妥当性があるのであるし、公務員たる地位にあるか否かはみずからの自由意思による選択に委ねられているのでもあるから、その制裁の故に「意に反する苦役」を強いられている状態にあるとは思われない。まして、地公法六一条四号は、争議行為それ自体に対し刑罰をもつてのぞんでいるのではなく、さらに違法性の強い「あおり等の行為」に出た者(しかも、当裁判所は「指導的立場」にある者だけが可罰的と解する。後記四、1参照)のみに科罰するのであるから、刑罰の威嚇によつて労働=苦役を強制している場合でもなく、また、ストライキ参加行為に対し刑罰という強制労働を科している場合とも思料されない。所論は採用できない。
(三) 憲法三一条との関係
所論は、地公法六一条四号の構成要件は異常に幅広くあいまいで、さらに争議行為の前段階の準備的行為を処罰対象としている点でも特異であり、これは憲法三一条の適正手続保障との関係で問題であるのに、原判決はこれらについて合理性ある解釈を行つていない、また原判決は地公法六一条四号の処罰対象は平組合員の「あおり等の行為」には及ばず諸般の事情を総合して、「当該争議行為の全体又は一部の実行を統括する立場」において「あおり等」を行つたかどうかで決すべきものとする限定解釈を示しているが、独断に満ちたものであつて、同条の構成要件の不明確性を少しも特定し得ていない、という。
思うに、地公法六一条四号にいう「(遂行の)共謀」とは、二人以上の者が同法三七条一項前段に定める違法行為を行うため、共同意思のもとに、一体となつて互いに他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をすること(最高裁昭和四四年四月二日全司法事件大法廷判決、刑集二三巻五号六八五頁参照。なおこの謀議には争議行為を遂行できる者が参加していることが必要と解される。)、「そそのかし」とは右違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を新たに生じさせるに足りる慫慂行為をすること(同上参照)、「あおり」とは、右の目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えること(最高裁四・二五判決参照)をいい、これらの行為は、いずれも、将来における抽象的、不確定的な争議行為についてのそれではなく、具体的、現実的な争議行為に直接結びつき、このような争議行為の具体的危険性を生ぜしめるものを指す(最高裁五・二一判決参照)と解され、また「これらの行為を企てた」とは上記「(遂行の)共謀」、「そそのかし」、または「あおり」行為の遂行を計画準備することであつて、違法行為発生の危険性が具体的に生じたと認め得る状態に達したもの(最高裁四・二五判決参照)をいうと解される。そしてこれの定義づけは判例法上もすでに確立されているので、地公法六一条四号の規定の概念はほぼ明確なものとなつており、この意味において構成要件が不明確ということはできない。もつとも、同条号の解釈としてはこの用語上の解明だけでは未だ不十分であると考えられる。なぜならば、争議行為の典型は労働者が自己の主張を貫徹するため集団的、組織的に労働力を停止し、または不完全にしか提供しない行為等であるが、この行為に至る経過では当然集団構成員間に団結を守るための何らかの意思の交流ないし刺激は存するであろうし、しかもそれをめぐる職場環境はかなり緊迫、昂揚した状態である場合も少なくないと思われる。しかるに、地公法六一条四号は争議行為単純参加者は不処罰としているのに対し、もし同号の「あおり」等を字義どおりに適用する場合、右のような環境での意思の交流ないし刺激が殆んどこれに該当することになるとすれば、その規定は結局争議行為単純参加者そのものを処罰することとなつてしまい、これは明らかに法の意図に反することとなるからである。法の趣旨は既述の如く争議行為の原動力となる指導的行為のみを処罰すれば単純参加者は不問に付してもよいとするものであつた。そうだとすれば、「あおり」等に関する前記解釈は字義どおりでは足りず、争議行為の指導的立場にある者のする「あおり」等に限定すべきだと考えるのが事理に合するといわなければならない。すなわち、地公法六一条四号の法意は、同法三七条一項前段の争議行為等を、「指導的立場において」共謀し、そそのかし、もしくはあおりまたはこれらの行為を企てた場合、その者を処罰するとしているものと解するのである。そして、原判決は、この点に関し、「当該行為者の行為が、全体的評価において、自ら又は他の者と共に、当該争議行為の全体又は一部の実行を統括する立場において『共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた』と認められる」場合において、はじめて地公法六一条四号に該当するものと説示しているが(原判決書IV第二、4、(二)、(3) 。一四〇頁)、表現は少し異るものの、当裁判所の見解とほぼ同趣旨と解してよいであろう。いずれにせよ、一種の指導者責任に限定しようとするものである。(所論は、このように解することは誤つた幹部原動力論を前提としているというが、これに対する当裁判所の見解は後に改めて示す。)したがつて、かく解する限り、地公法六一条四号に構成要件上の不明確さはなく憲法三一条違反の問題は生じない。
なお、所論は争議行為の前段階のみを処罰する点を不法とするが、これは既述のところ(前掲5、(一)、(1) )からも明らかなように、争議参加行為自体も刑事法上違法と考えられるのであり、したがつてその共犯的行為たる「あおり等の行為」も違法となるうえ、かえつて違法性も高いとみられるため争議行為の前段階行為のみを処罰することとしたわけである。このような立法はたしかに異例ではあるが、労働問題の特殊性及び国公法・地公法制定過程の特殊性に起因することであつて、決して憲法三一条に違背する立法とは断ぜられない。
さらに、弁護人は、当審最終弁論(弁論要旨二八五頁)において、地公法六一条四号は「あおり」等の行為を企てた者をも可罰対象としているが、これは同法三七条一、二項所定の民事制裁の範囲よりも広く、不条理であつて、憲法三一条に違反するとも主張しているので、付言する。
しかし、民事制裁(懲戒処分)は、職員の服従義務違反について、公務員関係といういわば部分社会の内部的秩序維持のため下される不利益処分であるのに対し、刑事制裁は職員の一定の違法行為について、社会公共といういわば全体社会の法益侵害の観点から国の統治権に基づいて科される刑罰であるから互いにその目的を異にし、当然各対象行為の範囲が一致するとは限らないものである。地方公務員の争議禁止違反の場合、たしかに地公法は民事制裁の面では、争議行為の「(遂行の)共謀」「そそのかし」「あおり」を対象とし、これらの「企て」を含めてはいない。しかし他方、刑事制裁の対象として不問に付されている争議参加行為自体及び争議行為の企てを対象としているのであるし、したがつて刑事制裁の面で「あおり」等を企てた行為がその対象に含められているからといつて、このような両制裁を機械的に広狭の面で比較のうえ刑事制裁の範囲を広いとみて不条理と考えるのは決して妥当なことではない。問題はこの「あおり」等の「企て」が十分可罰評価に耐え得るか否かでなければならないであろう。しかるに、この「企て」は、公務員の違法争議の原動力たる「あおり」等の行為を計画準備することであつて違法争議の具体的危険を生ぜしめるものと解され、これは、いうまでもなく、「あおり」等の未遂犯的なもの及び予備犯的なものにあたるのであるから、これに科罰することが刑事法の体系上合理性を欠くということはあり得ないと考えられる。したがつて、地公法六一条四号の規定が所論の如き理由をもつて憲法三一条に違反するということはできない。(所論は、自衛隊法六四条二項、三項、一一九条二項後段の規定を自説に有利に援用しようとするけれども、同法六四条及び一一九条以下の罰則規定等によれば、自衛隊員は労働組合運動につき一般公務員と甚だ異る特殊な地位に置かれており、違反行為に対する科罰の程度も重いのであつて、同法の規定をもつて一般地方公務員を対象とする地公法の憲法解釈上の参考にするのは到底適切とはいい難い。)
6 「地公法三七条一項、六一条四号の教職員への適用の誤り」の主張について
弁護人は、原判決が、<1>「IV、第一、本件ストライキの規模、性格、結果などについて」の項(原判決書六一頁以下)、<2>「IV、第二、二、1、職務の公共性を理由とする争議権の制限について」の項(同八五頁以下)、<3>「IV、第四、二、可罰的違法性阻却の主張について」の項(同二〇〇頁以下)、<4>「IV、第五、公訴権濫用による公訴棄却の申立について」の項(同二一三頁以下)において、教職員の職務及びその争議行為の影響に関し各判示している点を批判し、教職員(主として教員)の職務の特質及びその争議行為の影響力の程度にかんがみると、教職員の争議行為は、それがきわめて長期にわたる場合のように教育に重大な障害をもたらすときは格別、そうでない限り刑事制裁を加えるべきでないのに、原判決が本件ストに地公法六一条四号を適用したのは誤りである、と主張する。
しかしながら、地公法三七条一項、六一条四号は、地方公務員である限り、すべての者に適用されるものであつて、特に教職員について特別の取扱い、すなわち特殊の違法性阻却原因を認めるものではない。したがつて、所論は所詮独自の主張というほかないが、所論が強調している教職員の職務の公共性のもつ意義及び教職員の争議行為の影響力については、本件ストの法律上、事実上の評価にあたり必ずや言及せざるを得ない事項であるので、便宜上所論に答える形でここでまとめて考察を加えておく。(もつとも、本件ストの具体的影響のいかんは、主として違法性阻却に関する主張の面や情状面に属することであるので、その関係で触れることとし、ここでは一般的影響力の問題にしぼつて考える。)
(一) 教職員の職務の公共性
所論は、原判決は教職員の職務の公共性を過度に強調し、争議権否定の結論を導いている、という。
しかし、憲法二六条は国民に対し、教育を受ける権利を保障し、また子女に普通教育を受けさせる義務を負わせている。さればこそ、教育基本法六条は、法律に定める学校は「公の性質」をもち、その教員は「全体の奉仕者」であると宣明しており(なお教育公務員特例法一条)、このように教職員の職務の公共性は公務員のなかでも特筆されるものとなつている。と同時に、教員は、教育という重要な仕事(教育基本法一条参照)に携わる以上、すぐれて専門的知識及び技術が要求されるいわゆる専門職であることも疑いない。そして国民は、かかる教員及びこれを支える職員によつて、その有する「教育を受ける権利」に対応する教育が、日常、正常円滑に与えられることを期待しているものといわなければならない。このように、教育は本来これを担当する専門的教職員により、予定された授業計画どおりの教育活動が安定的、継続的に行われることをもつて、その公共性を具現しているものである。したがつて、無計画な教育の中断は好ましいものではない。論者のなかには統治作用である一般行政の職務とは異り、いわゆる学校行政を除く純粋の教育活動には継続性の要請はないとする向きもあるが、その停廃はやはり国民の期待に反するといわなければならない。ストライキは人為的にその停廃をもたらす最も典型的な場合である。そして教職員は専門職である故にそのストライキにあたり代替可能性が殆んどなく、このため当局に教育の停廃を避ける手段が奪われている。このような視点から考えると、教職員の職務の公共性を強調し、この点を争議行為禁止の理由の一つとした原判決の態度は十分首肯できるものである。(当裁判所は教職員もまた「労働者」であると規定することについて必ずしも異存はない。しかし、それはあくまで「教育労働者」たるべきものであつて、教員の教育者たる本質はつねに確固として保有されなければならず、この教育者という職務の公共性はいくら強調しても強調し過ぎることはないと考える。)
なお、所論中、私立学校も「公の性質」をもつのに、その教職員には争議権が保障されている点、及び、「ILO・ユネスコの教員の地位に関する勧告」は、教員の職務の公共性を強調しつつも争議権が保障されるべきことを明言している点は、いずれも教職員の職務の公共性が争議権制限に結びつくものではないことを端的に示しているものである、とする部分について一言する。たしかに、私立学校教職員の仕事も公共性を有するものといわなければならないであろう。しかし、公務員に対する争議権制限は、この職務の公共性のほか、公務員が財政民主主義・勤務条件法定主義という憲法上の要請を受ける地位にあること、公務員の争議が市場の抑制力を欠く経済的・社会的特質を有することをもあわせて理由としているものである点すでに縷述したとおりであつて、私立学校の教職員には右二理由は該当しないのであるから、私立学校教職員に争議権が与えられていることと同一平面で論ずるのは当を得ないことである。また「ILO・ユネスコの教員に関する地位に関する勧告」が教員の職務が公共的であるとする一方、争議権が教員に認められるべきであることを想定していること(六項、一〇項、八四項参照)は所論のとおりであるが、右勧告もまた私立学校教職員について前述した、職務の公共性以外の二理由に関心を示していない点で不満足なものといわざるを得ない。
(二) 教職員の争議行為の影響
所論は、争議行為による授業の一時的中断はやがて回復可能であり、児童・生徒に対する精神的影響は事前事後の生活指導によつて教育的に十分対処でき、また児童の安全確保も予告措置をとればよいのであるから、争議行為による悪影響は通常殆んど考えられない、という。
思うに、当裁判所も授業その他の教育計画の実行が柔軟性・弾力性をもち、その一時的中断があつても回復可能な面が多分にあることを否定するものではない。しかし、たとえば、小・中学校の児童・生徒の教育は、主として知育、徳育、体育の総合の上に成り立つているものと解すべきところ、そのうち知育の面は中断後の補習授業、教科の進んでいる時間からの振替え、その他の技術的な対応で回復を期することが比較的容易だとしても、徳育の面ではかなりの問題を含んでいる。すなわち、成長期にある児童・生徒の人格の開発に向けられる教育活動は日々その発達の過程に即して行われるべきものであつて、あとからでもその中断部分は埋め合わせられると考えるのはすこぶる安易な教育態度と評されてもやむを得ないところと思われる。次に、この徳育と密接に関連する面として争議行為の児童・生徒、保護者等に対する精神的影響の面を考えると、まずもつて指摘されるべきことは、その争議行為が法律の明文をもつて禁止されていることとの関係である。組合の側では、この禁止は憲法に反するものであつて、争議参加は何ら違法ではないとの確信に基づくとするのであろうが、この確信は少なくとも最高裁四・二五判決以来否定されるべきものであつたといわなければならないものである。(いわゆる限定解釈によつて、争議行為に通常随伴する「あおり等の行為」を刑事罰から解放したとされる最高裁四・二判決ですら地公法三七条一項違反の行為一般に対しては懲戒等の民事責任はこれを肯定していたばかりでなく、都教組の行つた全一日の一せい休暇闘争の刑事法上の違法性を否定できないとしていたことも留意されてよい。)したがつて現行法上懲戒処分とか、ときには刑事制裁の対象ともなる法禁行為を教育者が敢えて行うことは、それがいかに破廉恥行為ではないものとはいえ、児童・生徒に対する遵法意識の涵養や規律的行動を指導するうえで決して好ましい事象とも思われず、これらの者の情緒に不安、動揺、混乱をひきおこすおそれがあるであろう。争議行為をめぐつて管理者と組合員たる教職員との相克が外面に露呈した場合には同様あるいはそれ以上の反応を生ぜしめることも容易に推測される。そのほか、争議が、もし、教職員の一方的利益の追求とみられたり、余りにも政治的なものであつたり、戦闘的過ぎたりしたときには、当然それに反対する時論もあり得るところであり、そこにわだかまる緊張関係は、教職員と、児童・生徒、保護者との間に教育上必須に存在すべきものとされる尊敬、信頼の関係をそこなうおそれがあり、ひいて教育の荒廃の一因ともなりかねないものをはらんでいる。このように、教職員においては他の公務員職種と異る無形の波紋があり得ることは十分戒心されるべきことである。所論は、争議のもたらす児童・生徒らに対する不安・動揺は教職員の適切な指導で解決可能だというが、幼少の者に対し、そういうところの真意なるものを十分理解させることはすこぶる難事に属することであろうし、教職員の大方にその自信と能力を期待できるものかも甚だ疑問である。
他方、争議行為はかりに短期間、短時間にとどまるものであつても、臨時休校、自習、登下校の調節等の学校行政における異常事態対策を余儀なくさせるのはもちろんである。また保安上の問題も生ずる。所論は、ストにおける安全確保の面は学校管理者なり父母への予告措置によつてあらかじめ余裕を与えれば対処できるとするかの如くであるが、そのような危険回避の策を講ずることを父母にまで求めなければならないことこそかえつて争議禁止の必要性を示すものとさえ思われる。
以上要するに、教職員の争議行為は諸般の面に悪影響をもたらす可能性が大である。この悪影響が当局に対しいわば打撃となるものであつて、もともとこのような打撃を与えて主張を貫徹しようというのが争議行為の狙いのはずであろう。その意味で争議行為の影響力を一般的に縮小解釈しようとする所論の態度は必ずしも妥当ではなく、到底賛し難い。
7 補論-「ILOの見解と憲法二八条の解釈」に関する主張について
弁護人は、原判決が、「ILOの見解等『国際労働常識と先進国の実情』として弁護人により主張された点をも考慮にいれて検討しても確立された最高裁の判例を覆えしまたはその本件への適用を排除すべき理由は発見できない。」とした点(原判決書IV第六。二一五頁)を批判し、当審最終弁論において「ILOの見解と憲法二八条の解釈」と題し次のように主張している。すなわち、「ILO八七号条約、同九八号条約に関するILOの諸見解、特に原判決以後に現われたそれによれば、<1>九八号条約六条にいう『公務員』とは管理職的地位にある公務員を指す。また、八七号条約はストライキ権と関連をもつ条約とみるべきであつて、ストライキの全般的禁止は結社の自由の諸原則と相容れず、ただ公務または不可欠業務においてのみストライキ権を制限し得ると解されるところ、ここにいう公務に従事する者とは九八号条約の公務員と同義で、『公的機関の代行者としての資格で行為する公務員』をいう。したがつて、かかる公務員以外の一般公務員は、八七号、九八号各条約の保障対象になる。<2>公務または不可欠業務においてストライキが制限される場合には、その代償措置として、迅速公平な調停及び仲裁の手続が確保され、その手続に当事者があらゆる段階に参画することができ、かつ、裁定が一旦下されたときは完全迅速に実施されるべく、その実施について予算上の権限の留保が伴うべきではないことが必要である。<3>結社の自由の諸原則と合致するストライキ禁止に違反する場合にのみ刑事罰は科せられるべく、しかも拘禁刑は平和的ストライキについては科せられるべきではない。-以上のように解されており、これらはもはや定立された普遍的な国際労働基準(国際的判例法)ともいうべきものであつて、いわゆる自動拘束力(Selfexecuting)をもつものとして批准各国を拘束し、したがつてその国の司法機関における条約解釈の基準をなすものである。しかして、八七号、九八号各条約の労働基本権の保障は憲法二八条と矛盾するものではなく整合しておりまたは整合するように理解すべきであるから、上記<1><2>の見解に反し、公務員に対し一律無制限にストライキ権を剥奪し、かつ所定の要件を充足する代償措置を欠如している地公法三七条一項、六一条四号の規定は、憲法二八条に違反する無効のものと解釈されなければならない。」
この主張につき、弁護人は、これは控訴趣意書中の特に第三章第三節ないし第五節の論旨を補充するものという。しかし、正確にはそれを超える面もあるので、特に本項を設け当裁判所の考えを述べておくものとする。
当裁判所の認識するところによれば、ILO九八号条約の公務員の範囲を所論<1>の如く解するのは必ずしも自明のことではなく、むしろその範囲は、「法令に定める勤務条件を享有している者」との政府解釈のもとに同条約が批准され、その後のILO各委員会においてもこの解釈が承認されてきた経緯があるとみられる。他方、八七号条約はもともとストライキ権とは関係がないという了解のもとに採択されたものであり、それがその後変改されたことは実証されていない。なるほど、当審で取り調べた一九八三年ILO条約勧告適用専門家委員会(以下、専門家委員会という。)報告「結社の自由、団結権と団体交渉に関する条約及び農林労働団体に関する条約と勧告に関する一般調査」においては、八七号条約がストライキ権を取り扱つていることを前提とするような論述があり(第七章二〇四項以下)、そして、「ストライキの全般的禁止は……結社の自由の諸原則とは相容れない。(同二〇五項)」、「ストライキ権を制限ないし禁止し得るという原則は……公的機関の代行者としての資格で行為する公務員や、国民全体もしくはその一部の生命、個人的安全ないし健康に対してその中断が危険をもたらす業務に……限定すべきである。(同二一四項)」との見解が示されている。しかし、その全章を通読するとき、右報告が、八七号条約が採択時の了解と異りストライキ権を取り扱う条約に変改されたことを公式に認めたものとは到底理解されない。また、同報告はストライキを禁止し得る公務員等の範囲を摘示しているのであるが、これは専門家委員会の希望的意見ともいうべきものであろう。けだし、この関係ではむしろ一九七八年七九二号事件ILO結社の自由委員会第一八七次報告((符五二三号))が想起されるべきであるからである。同報告は、日教組の行つた本件ストに対する政府の措置が労働組合権の侵害にあたるとして日教組等からの提訴に基づき右委員会において審議された結果を示すものであるところ、その一三八項において、「本件に見られるような地方公務員をストライキするようにそそのかし、あおる者を一般法に基づいて逮捕並びに起訴することは結社の自由の原則の侵害とはいえない。」としており(もつとも、同報告は同時に、日教組幹部の逮捕や起訴に対しては強い批判的態度をとつている。一三九項参照)、これは、明らかにわが国の地方公務員一般に対するストライキ禁止法制を前提とした法的所見であるということができる。したがつて、このような従前の見解と合致せず、また不合致の理由についての説明も付されていない一九八三年専門家委員会報告の論述は、同委員会の希望的意見に過ぎないと考えられるべきものである。
次に、所論指摘の<2>の代償措置については、右専門家委員会報告二一四項、二二六項等に、<3>については同二二三項に述べられているものである。この点に関する当裁判所の立場は、<2>についてはすでに説示したところであり(三、4、(一)、(2) )、<3>については後述するところであるが(第二、二)、ともあれ、そもそも専門家委員会は条約についてのいわゆる有権解釈をなす権限はないとされており、右<1><2><3>に関する報告内容はILO総会の審議を経たILOの最終統一見解となつているものではなく、したがつて、専門的な権威ある意見とはいい得ても、未だ国際労働基準などと位置づけ得るものとは思われない(もとより自動拘束力を有するはずもない)。
たしかに、ILO各種委員会の見解は労働者の地位向上のため国際的視点から一つの理想形態を示すもので、国内労働関係立法上の、あるいは既存法令解釈上の指針として甚だ示唆的なものである。しかし反面、その提言は各国の政治的、秩序的、社会的(国民感情を含む。)側面に対する顧慮が薄いことは否めないところであつて、この点はその見解を参酌するについて十分留意を要することであろう。特に、わが国の公共部門における労使関係には独自特異の面がある。したがつて、このようなILOの諸見解をそのまま継受した解釈を試み、わが国の公務員に対するストライキ禁止法制を直ちに違憲とするのは決して論理的でもなく、また現実的でもないと考える。弁護人の主張には賛同できない。
四 控訴趣意書第四章(地公法六一条四号の解釈適用の誤りの主張)について
1 「あおり」等の行為主体をめぐつて
弁護人らは、原判決が「あおり」等処罰の対象となる行為主体について、当該行為者の行為が全体的評価において当該争議行為の全部または一部の実行を統括する立場において「あおり等の行為」をなしたか、逆に統括される立場において争議参加行為に随伴して関与したか等の点を中心にして個別的事情に応じた選別認定をしていくべきであると判示した点(原判決書IV第二、二、4、(一)、(3) 、一四〇頁)を批判し、原判決はこの点に関する最高裁四・二五判決、同五・二一判決のもつ各弱点を補強し、右「統括説」をとるに至つたものであろうが、この説も、処罰される者とされない者との限界があいまいで、もともとその基礎となつている幹部原動力論は労働組合に対する誤つた事実認識に基づくものであるし、また不処罰の範囲を、争議行為への単純参加のほかは、争議行為への参加に通常随伴する行為のみに限定する所見も不当である、と主張する。
思うに、一の組織体として活動する労働組合にあつては、通常執行部と称せられる組合幹部において組合の運営を担当し、対外的に組合を代表し、特に団体交渉等の任にあたり、また他団体、他機関との連携、連絡等の渉外事務を行い、対内的に組合の内部事務を担当するほか、組織力強化のため組合員に対する教宣その他の指導につとめるのが通常の形態と思われる。もちろん、多くの組合ではいわゆる組合民主主義の原理が支配し、組合員の多数の意思に基づかない組合運営はあり得ないとされ、組合執行部も組合員自体の選出にかかるものではあるが、そこで構成された執行部は逆に組合の指導部ともなつて組合の運営にあたるのが実態である。このことは争議の遂行の場合にも同様であり、争議の発想が組合幹部から出た場合はむろんのこと、 一部組合員からいわば突き上げられた形で出てきた場合であつても、争議の実施についてその得失の検討、戦術の企画立案、組合員意思の集約、実行行為の指示、指導等はおおむね組合幹部の責任において行われるのが一般にみられる社会的事実である。このように、組合幹部の組織能力なくしては組合員がいかに強い争議意図を有していたとしてもそれは所詮烏合の衆にもひとしく、争議は瓦解する。したがつて、争議行為の真の実態に即し、一般に争議を牽引していく組合幹部を目して争議の「原動力」ないし「支柱」たる者とか「中核的地位」を占める者と表現することは決して背理ではないであろう。この組合幹部の争議において果たす具体的役割については原判決が所論指摘の各個所(原判決書IV第二、二、4、(一)、(3) 、一三三頁。同上、(二)、(2) 、一四四頁から一四五頁。第三、二、3、一五八頁から一六二頁)で詳論しているとおりであつて、当裁判所も全く同感である。所論は、このような見解は、幹部による指導、被指導の一方的な上下関係とのみ捉える立場に立つものと論難しつつ、組合幹部の役割が中核的、指導的であるのは、組合員の権限付託と民主的多数意思に基礎をおく結果であり、組合員の期待に答える幹部の職務上の義務の遂行にほかならないのであつて、その任務遂行をもつて争議時における原動力と評価することはできないという。しかし、所論は組合民主主義の形式面を強調し過ぎるきらいがあり、現実には組合路線の決定が明らかに執行部の構成によつて左右されること、いわゆる統制権の実体は執行部に存すること、したがつて執行部の構成を決める役員選挙に異常な関心が寄せられる場合が少なくないこと、労使交渉等の成功失敗は一にかかつて組合幹部の力量に帰せられること等々の事象は、組合内における幹部の指導力がいかに重要であるかを如実に示すものであるし、このことは平時におけるそれよりも闘争時においてさらに顕著になることはきわめて常識的なことと思われる。原判決、そしてその依拠する最高裁各判決の組合幹部重視の前提は少しも誤つていない。
このように考えてくると、地公法六一条四号が「あおり等の行為」を処罰しているのは、すでに述べたとおり組合員一般のあおり等の行為ではないと解さなくてはならない。それ故、最高裁四・二五判決は違法争議の原動力ないし支柱となるものとして罰せられる「あおり等の行為」から「単なる機械的労務を提供したにすぎない者、またはこれに類する者」を除外し、同五・二一判決は「あおり等の行為」は、「それなくしては争議行為が成立しえないという意味においていわばその中核的地位を占めるものである」と説いているものである。(なお、最高裁一〇・二六判決は「積極的に争議を指導した者」との表現を用いる。)
そして、当裁判所が前記の如く「あおり等の行為」は「指導的立場において」なされるものを指すと考えるのは基本的にはこれらの最高裁判決の趣旨に立脚するものにほかならない。また、原判決が「統括する立場」ということを提言するのも同一の見解に立つものというに妨げあるまい。(しかして、本件において被告人両名が以上の意味における「あおり」等の行為主体に具体的にあたると考えられる者であつたことは疑いをいれない。)
ところで、所論は、この原判決のいう「統括する」者に該当するのは、執行部の全員か、いわゆる三役に限るのか、最高責任者に限るのか明白でなく、また、争議行為の「一部」を統括するとはどの範囲か明確を欠き、このように限界の定まらぬ解釈では国民の人権は著るしくおびやかされるという。しかし、「統括する立場」とは、「指導する立場」と同じく、一般組合員より実質的に上位に立つて、当該争議行為ないし参加者をまとめ、一定の方向に導く立場をいうものと解される。したがつて単位組合またはその連合体において執行部を構成し組合幹部と称せられる者の多くはこれに該当するであろう。また「一部」を統括する(一部を指導する、といつても同じ。)という場合、これが単位組合の下部組織である支部や、規模にもよるが分会等にも及び得る概念であることはいうをまたない。一般に、このような行為主体を論ずるときは、対象となる集団及び違法行為の様態との相関関係において決定されることであるので、定義自体としてはやや弾力的なものたらざることを得ないことは、たとえば騒擾罪(刑法一〇六条)における首魁、指揮者、率先助勢者、附和随行者の場合のそれと同じである。統括説は限界があいまいになるとの所論は必ずしも当を得ていないと考える。
なお、原判決中には、争議行為への参加に通常随伴するあおり行為等は処罰範囲に入らないとする部分があるが、これは要するに、可罰的な「あおり等の行為」の解釈について、特別の(除外)基準を設定したというより、右統括説をとる縁由としての説明というべきで、したがつて争議行為への参加に通常随伴すると認められる程度の相互協議、教宣行為等が不処罰とされるからといつて、直ちに所論のように幹部の(あおり性のある)教宣行為等までも右と同視して処罰を免かれると短絡させるわけにはいかないであろう。所論は採用できない。
2 「あおり」「あおりの企て」の解釈をめぐつて
弁護人は、原判決が<a>「地公法六一条四号にいう『あおり』とは、同法三七条一項前段に定める違法行為を実行させる目的をもつて他人に対し、その行為を実行する決意を生じさせるような、または、既に生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えることをいい(最高裁大法廷昭和三七年二月二一日判決刑集一六巻二号一〇七頁、同四・二九判決、同五・二一判決)」、<b>「『あおりの企て』とは、右のごとき違法行為のあおり行為の遂行を計画、準備することであつて、違法行為発生の危険性が具体的に生じたと認めうる状態に達したものをいう(前記四・二五判決)」と解し、個々の事例があおりにあたるか否かは「単に、主として感情に訴える方法であるか否かだけではなく、対象者の数や訴える際の雰囲気、個々人が理性的に理解するのか団体的熱気に刺激されることが多いか等々の点を総合して判定するべきもの」とした点(原判決書IV第二、二、4、(二)、(1) 、一四二頁から一四三頁。第三、一、2、一五四頁)を批判し、<1>原判決の解釈及びその前提をなす最高裁判決は、「煽動」に関する伝統的解釈に反する不合理なものであつて、「あおり」とは、煽動に関する伝統的解釈にしたがい、かつ表現活動の自由との関係から、「感情に訴える方法による不公正な行為」、少なくとも「主として理性に訴える表現行為の域をこえるもの」と解釈すべきである、とするとともに、<2>かりに、このような感情説に立たない場合には、「あおり」は反社会性、反規範性の高いものに限るとの観点から、争議行為に関する組合の機関決定(方針案・方針・指示・解説)の伝達の如きものについては、その手段内容において詐術・脅迫その他不正・不当なものであることを必要とする、とし、いずれにせよ、本件公訴事実の被告人らの行為は「あおり」に該当しない、と主張する。
(1) 思うに、地公法六一条四号(国公法一一〇条一項一七号)の「あおり」については、上記原判示<a>のように定義することが判例法上確立された解釈とみられる。そして、これは破防法のせん動の定義(同法四条二項)と同一でもある。したがつて、特にこれに異をとなえる理由もなく、「あおり」の成否はもつぱらこの定義に準拠して案ずれば足りると思われる。所論は、原判決書IV第三、一、2(一四八頁以下)に弁護人の主張として摘記されているところと同一の理由を再びあげ、「あおり」のいわば前身的用語である「煽動」については、明治三三年制定の治安警察法以来、相手方の感情に訴える方法をもつてすることが不可欠の要件とされてきており、したがつて「あおり」についても同様に解すべきだ、というのであるが、しかし、相手方の感情に訴えるものか、理性に訴えるものかということだけが煽動ないし「あおり」と、教唆ないし「そそのかし」とを区別する決定的基準とすべきでないこと原判決の説くとおりである。もつとも、前記<a>の定義にしたがつても、「あおり」は相手方に対し「勢いのある刺激」を与えるような行為であるから、これは主として、相手方の感情の興奮、昂揚を惹起するような行為たることを前提としていると考えられ、所論が「あおり」について感情的作用を強調するのはその限りにおいて十分頷けるところではある。しかるに、被告人らの本件各電報、電話、文書等の各発出伝達行為の性格は、すでに詳細考察した如く、ともに下部組合員に対し、第一波全一日、第二波早朝二時間(半日)にわたる全国規模のスト体制を確立した熱気の中で、スト決行日の決定を公示してスト参加を強く慫慂し、あるいは組合員の士気を鼓舞・激励しようとしたものであつて、これらは組合員に対し、その感情面に作用する「勢いのある刺激」を与えたものとみることができよう。そして、原判決も右電報等発出のもつ感情的要素を軽視したものでないことはその判文上明らかである。要するに、原判決の「あおり」の解釈適用については、所論にかかわらず、何ら誤りは存しない。(なお、所論は、「あおり」行為の要件として、反社会性の高いこと、すなわち不正不当の手段の存することが必要であるともいうが((上記<2>))、「あおり」とは違法行為を実行させる目的をもつてする刺激行為である以上、それ自体すでに反社会的危険性をもつ不正不当なものであるから、所論は独自の主張というほかない。)
ところで、弁護人は控訴趣意としての所論とは別に、処罰される「あおり」とは争議の「原動力」にあたる「あおり」でなければならない旨強調する(当審第六回公判手続更新にあたつての意見。同陳述書一四九頁)。弁護人のこのような意見は、最高裁四・二五判決が、「違法な争議行為をあおる等の行為をする者は、違法な争議行為に対する原動力を与える者として、単なる争議参加者にくらべて社会的責任が重いのであり、また争議行為の開始ないしはその原因を作るものであるから、……その者に対しとくに処罰の必要性を認めて罰則を設けることは、十分に合理性がある」、あるいは同五・二一判決が、あおる等の行為は、「争議行為の原動力をなすもの、換言すれば、全体としての争議行為の中でもそれなくしては右の争議行為が成立しないという意味においていわばその中核的地位を占めるものであり、……このような行為をした者に対して違法な争議行為の防止のため特に処罰の必要性を認め(たもの)」と説示している点を根拠にして「あおり」等を限定的に解釈しようとするものである。しかし、「あおり等の行為」につき、その各文言の定義、具体的危険性の必要性及びその主体に関して既述(三、5、(三)及び四、1)のように解するならば、かかる解釈を充たす「あおり等の行為」が行われたときには、それはおのずと争議行為に対する原動力たる性格を帯びる「あおり等の行為」があつたといい得るのであつて、それ以上限定的な解釈を施す必要は毫も見いだせない。弁護人の意見には賛同できない。
(2) 次に、弁護人は控訴趣意として「あおりの企て」に関しては、その解釈が厳格になされるべきことを強調しているにとどまり、原判決の解釈について別段誤りがある旨具体的に指摘しているわけではないと認められるので特に判断の要はない。ただこの「企て」の罪について弁護人が当審及び原審において言及している次の二つの法律論に触れておく。
イ、その一は、「あおりの企て」の境界についてである。この点に関し、弁護人は、予備犯的「企て」は、「あおり」等の実行行為に接着していること、または、いつでも実行に着手し得る程度の準備行為たることとを要するとしている(当審最終弁論要旨三四七頁等)。そして、いわゆる企行犯と呼ばれる犯罪類型に関し、判例・学説のなかには弁護人所論の如き趣旨の表現をなしたものもある。しかしながら、「あおりの企て」と不可罰的準備行為との境界は、違法争議行為発生の危険性が具体的に生じたと認め得る状態に達しているか否かで画定するというのが近時の最高裁判例の趣旨と解され、またそれが妥当と思われる。
ロ、その二は、「あおりの企て」行為があつた後、「あおり」行為が現実に成立した場合の罪数関係についてである。この点に関し、弁護人は、かかる場合「あおりの企て」は「あおり」に吸収され独自の存在を失うと主張している(原審弁論要旨一一二五頁)。しかし、「あおりの企て」「あおり」の両者ともその発現態様は無定型で多様であり、それぞれ固有に違法争議発生の具体的危険性を具有するという意味で、おのおの可罰性を保持しつつ違法争議の実現に向けて進展していく一群の行為である。それ故、或る「あおり」行為の実行着手後の、または前であつてもこれに密着する「あおりの企て」行為はともかくとして、その他の「あおりの企て」行為は、後の「あおり」行為に吸収される関係にあるとは考えられない(この点、単純な予備犯が基本犯に吸収されるのとは些か趣きを別にする。事案をやや異にするが収賄罪に関する大審院昭和一〇年一〇月二三日判決、刑集一四巻一〇五二頁参照)。とともに、「あおりの企て」も「あおり」もその終局の目的を一にする段階的行為であるから、原則としてこれらを包括して一罪として論ずべきである。原判決も本件につき同旨の取扱いをしており是認できるところである。
3 「あおりの企て」「あおり」の具体的適用をめぐつて
弁護人は、控訴趣意書四四四頁以下において原判決の認定に即しつつ、またはその認定に誤認があるとしたうえで、被告人両名の行為について「あおりの企て」「あおり」罪を適用したのは誤りであるとする諸点を指摘する。しかし、その諸点の多くはすでに判断を加えたところと重複するとみられるので、これらについては再説を省き、「あおりの企て」に関する次の三点についてのみ説明しておく。
(一) 所論中、原判決は、被告人槙枝が第四四回臨時大会において、統一ストライキに必要な指令を発出伝達できるよう各県教組委員長からあらかじめ指令権を委譲されたことをもつて、ストライキ準備行為の重要な一部をなすと判示したが(原判決書IV第三、三、1。一六七頁から一六八頁)、<1>第五回全国戦術会議における右委譲された指令権の発動の実質はスト戦術配置の確定に過ぎないから、その発動準備をしただけでは未だ「あおることを企てた」ということはできない、<2>本件で三・二九電報等は指令でもなく、「あおり」にあたるものでもないが、かりに指令だとみても、指令権委譲のあつた時点では指令の発出は批准投票の成立にかかるという不確定な状況下にあつたばかりでなく、ストライキの日時も特定されず、かつストライキ実施予定日より遥かに離れていた時点での指令権の委譲をもつてしては、未だ「違法行為の危険性が具体的に生じたと認め得る状態に達したもの」すなわち「あおりの企て」にあたるものとはいえない、と主張する点について
しかし、第五回全国戦術会議における指令権発動宣言の性格については既述のとおり「スト体制の確立」を基本的に了したものと理解するのを相当とする(二、A、3、(二)、(三)参照)。これを組合用語として所論のようにスト戦術配置の確定と呼称することもあるのであろうが、表現はともあれ、スト実施のため不可欠な段階的行事であつたことに疑問の余地はない。したがつて、第四四回臨時大会における被告人槙枝に対する指令権の委譲は、右のような意義をもつ指令権発動宣言の前提をなすとともに、実力行使に関するすべての指揮命令の権限を中央闘争委員長たる被告人槙枝の一手に独占的に掌握させるものとして、ストライキ突入に必要な指令ないしこれに準ずる行動要請を発出するための準備行為の一つというべきである。この場合、委譲の時期が批准前である等所論指摘の状況下にあつたとしても、同臨時大会では、同時に二月、三月を闘争体制確立月間として設定し、各級機関がオルグ教宣活動を集中的に展開し、批准投票の成功を期するための対策をも定めており、したがつて、被告人槙枝をはじめとする組合幹部としては傘下大部分の県教組におけるスト批准の成功に自信をもち、スト体制の確立は優に既定路線上にあると判断できる状況にあつたと認めることができるので、これはストライキの現実的危険性を発生させる状態にあつたというに足りる。(同臨時大会第二日目の二月二六日付けで、文部大臣より、スト実施に対する自重自戒を求め、かつ実施した場合における処分の警告を内容とする談話が発表されるとともに、文部省初等中等局長名義をもつて各都道府県、指定都市教育委員会教育長あて「教職員のストライキについて(通知)」が発せられていることは、同臨時大会決定がストライキの現実的危険性を有することを窺知させる徴憑の一つともいえよう。)
(二) 次に所論中、原判決は、被告人槙枝が、右臨時大会において、本件ストライキを成功させるため各級機関においてオルグ活動、職場学習会・討論会等を積極的に行うことを決定し、また指示第一八号の発出を指示したことをもつて「あおり」の計画・準備の一部にあたる行為をしたと判示したが(原判決書IV第三、三。一六八頁から一六九頁)、オルグ教宣活動や学習・討論は組合の日常活動であつて「あおり」にあたるものではなく、また甚だ具体性を欠き、このようなことを決めたことが「企て」に該当するいわれはない、と主張する点について
思うに、「あおりの企て」が成立するためには、当然その前提としての「あおり」行為が想定されるところである。そこで本件臨時大会の決定内容を「あおりの企て」と解する場合の「あおり」とは何かを案ずると、この点につき検察官は、原審第二回公判において、「<イ>行動指令の発出伝達、及び<ロ>スト実施体制確立のための説得慫慂活動がいずれも『あおり』である」旨釈明している。この釈明内容中、<イ>はともかく、<ロ>はかなり幅のある主張であつて、(i)スト実施体制の確立強化のためスト突入に至るまで各級機関において行われる説得慫慂活動のすべて、ともとれるし、(ii)検察官の冒頭陳述等の内容と照らしあわせると、もつと狭く、右臨時大会でスト体制確立のため行うとしたオルグ活動、職場学習会・討論会等の説得慫慂活動そのもの、ともとれる表現である。一方、弁護人は、原審以来、もつぱら(ii)の意義に解したうえ、かかるオルグ活動等は「あおり」にあたらないと主張している。これらに対し、原判決はIV第三、三、1において、被告人槙枝に対する指令権の委譲が指令の発出伝達の内部的準備にあたるとしたほか、臨時大会の決定で「各級機関がオルグ教宣活動を集中的に展開し、職場学習会・討論会を積極的に行ない……ストライキ突入体制を整備することとしたこと……は、右のようなストライキとこれへの説得慫慂活動の実施に向けて、その時期・方法等を定めたもので、『あおり』の計画・準備の一部にあたる。」と説示しているところ、この後段部分は一見(ii)の如く解しているようにも読みとれるが、他面、「ストライキとこれへの説得慫慂活動の実施」としている点を考えると、むしろ(i)の如く解しているとみられなくもない。
しかしながら、当裁判所は、この場合の「あおり」とは、被告人槙枝によるストライキ実施に関する指令の発出伝達ないしこれに準ずる行動要請等の慫慂行為と理解すべきものと考える。すなわち、本件ストについては、既述のように(二、A、4、(一)、(2) 、(イ))、第五回全国戦術会議における被告人槙枝の指令権発動宣言によつて自動的にストに突入するものではなく、なおその後に、ストに関する指令ないしこれに準ずる行動要請等(以下この項においては「指令等」ともいう。)がほぼ必然的に求められる関係にあつたと認められる。要するに、スト突入はそのような指令等の切つ掛け(はずみ)を得て敢行されるものであつたのである。そうしてみると、日教組第四四回臨時大会、指示第一八号、第五回全国戦術会議は順次、スト実施体制の基本的確立へ向けての段階的行事であつたが、右の指令等に力点を置いてこれをみるならば、それらはスト実施に殆んど必須とされる指令等の発出等のための準備行為たる性質を有するものであり、その手続なくしてはストはなく、またスト指令等もないという意味で密接につながるものであつたということができる。したがつて、この指令等の発出等が「あおり」性をもつ蓋然性が高いと考えられる以上、その準備たる右第四四回臨時大会の決定(その主な内容は、七四春闘山場の四月中旬における第一波早朝二時間、第二波全一日のストライキを内容とする闘争体制の確立をはかるものとし、具体的戦術の手段として、上記(一)の如き指令権の委譲を行つたうえ、批准投票の手順・闘争基金の徴収方法等を取り決め、オルグ活動、職場学習会・討論会を積極的に組織する、というものである。)、指示第一八号の発出(その主な内容は、指令権委譲の点を除き、右臨時大会決定とほぼ同様のものである。)は、第五回全国戦術会議の決定(その主な内容は、上記(一)の指令権発動宣言と、「七四春闘『ストライキ』戦術実施要綱((行動規制))について」の配布指示である。)とともに、「あおり」の計画準備、すなわちその「企て」に該当することは明らかといわなければならない。そして、特に、右臨時大会の決定は、爾後における指示第一八号及び全国戦術会議の基調を形成する決定であつて、あおり性をもつ指令等を発出するについての計画準備の発端をなすものとして位置づけられ、きわめて重要視されるべきものであつたのである。したがつて、このように、同臨時大会の決定が「あおりの企て」にあたるのは、スト突入に必要なスト指令ないしこれに準ずる行動要請(それは、本件では結局三・二九指令となつて発現した。)の発出等のスト慫慂行為の計画準備に及んだことに基づくものであるから、同臨時大会の決定の一内容たるオルグ活動、職場学習会・討論会等が「あおり」にあたるかどうかとは当面全く無関係のことである。もともと、「あおりの企て」とは自己または自己と意を通じた者の「あおり」行為を計画準備することであり、他人の「あおり」行為を準備する場合を含むものではないと解され(これは、「あおり」の実行着手後これを遂げなかつた、いわば未遂犯的「企て」の場合は当然のこととみられるが、実行着手前のいわば予備犯的「企て」の場合も同様に解すべきものと思われる。)、かつ、「企て」の前提となる「あおり」が前叙の如く、指導的立場においてするそれでなければならないこと等にかんがみれば、被告人槙枝が委細について関知することのない、下部各級機関で行われるストに対する各種の説得慫慂活動までを同被告人の「企て」の射程距離内に入れてこれに帰責しようとするのは甚だ事理を欠くことともいえよう。
以上の理由により、当裁判所は、日教組第四四回臨時大会の決定は爾後に想定される「あおり」性をもつストに関する指令の発出・伝達ないしこれに準ずる行動要請等の慫慂行為のための計画準備を行つたという意味で「あおりの企て」に該当すると認めるべきものと考える。この点に関する原判決の理由説明はすでに指摘したように必ずしも判然としないものがあるが、「罪となるべき事実」第一、一の判示部分は、その表現及び結論において当裁判所の見解と特段背馳するところはない。
かようにして、所論が、右臨時大会の決定が「あおりの企て」になるとした場合の「あおり」を、もつぱらオルグ活動、職場学習会・討論会等の行為に限局したうえで、これらは「あおり」にあたるものではなく、したがつて「あおりの企て」も成立しない旨主張するのは、当裁判所の見解とその前提を異にし、肯綮を失しているというべきである。
なお、指示第一八号についての所論も、右に述べたところから明らかなように採用するに由ない。
(三) 所論中、原判決がIV第三、四、1「都教組第五七回臨時大会」、同2「指示第八二号」の項(原判決書一七二頁から一七三頁)において被告人増田の「あおりの企て」が成立すると判示したのは、被告人槙枝に関する右(二)の所論と同じ理由で誤りである、と主張する点について
都教組第五七回臨時大会における決定内容及び指示第八二号の指示内容は二、B、2において認定したとおりであつて、それらは四月中旬における統一ストライキのためのスト体制の確立強化をめざすものであつた。そしてそれは、当然、スト突入に必須とされるストに関する指令ないしこれに準ずる行動要請(本件では結局三・二九指令や四・三「行動規制」の配布となつて発現した。)の発出・伝達のための計画準備たる側面をももち、したがつて「あおりの企て」に該当すること、及び、この「あおりの企て」の成否はオルグ活動、職場学習会等が「あおり」性をもつか否かとは必ずしもかかわりなく決せられるものであることは、いずれも日教組第四四回臨時大会の決定及び指示第一八号について被告人槙枝に関し説示したところと同様である。所論は理由がない。
なお、弁護人は、原判決が「被告人増田は、日教組第四四回臨時大会の決定内容及び指示第一八号等を受け入れて、日教組役員らと共謀のうえ、都教組第五七回臨時大会において組合員に対し同盟罷業実施体制確立のための説得慫慂活動を実施することなどを決定し、」と判示した点(原判決書罪となるべき事実第二、一。二三頁)を批判し、右のような受入れの事実はなく、したがつて日教組役員との共謀もないとの意見を述べている(当審第九回公判における公判手続更新にあたつての意見。同陳述書八〇頁)ので、職権をもつて判断する。しかるに、都教組臨時大会議案と日教組臨時大会決定及び指示第一八号とはその内容においてほぼ共通していること、たしかに都教組臨時大会議案の作成は日教組臨時大会決定や指示第一八号の発出前に作成されたものではあるが、それ以前すでに日教組臨時大会議案の内容は成立していたとみられること、日教組幹部と都教組幹部とは常時意思を疎通していたと推認されること、都教組臨時大会議案のなかには、早くも「日教組臨時大会で決定された戦術について、云々」の文言が記載されていること(符一三三号(3) 面)等を総合すると、原判示の三月上旬ころには、被告人増田において、原判示のとおり、日教組臨時大会の決定、指示第一八号の内容等を受け入れて日教組役員らと原判示共謀を遂げていたことが優に認定でき、弁護人の意見には同調できない。
五 控訴趣意書第五章(可罰的違法性に関する事実誤認と法令解釈適用の誤りの主張)について
弁護人は、原判決が、本件行為には可罰的違法性がないとする弁護人の主張を排斥した理由(原判決書IV第四、二。二〇二頁から二一三頁)のうち、<1>本件ストライキの内容、突入経過、態様について説示したところはおおむね納得できるが、<2>本件ストは人事院制度を部分的に否定して労使交渉による賃金決定という新方式への移行を求めようとする主張につながり、かつスト権付与の当否という政策問題にいきあたるものであるとした点、<3>本件ストの影響が重大であるとした点、はともに誤りであると批判したうえ、<4>被告人らの本件「あおり」等の行為は、多数組合員の春闘へ向けての意欲の高まりに沿つてなされたものであつて、原動力性や具体的危険性は乏しいと強調し、結局、本件ストの目的、経過、影響、さらに「あおり」等の行為の違法性の程度等を総合すると、被告人らの行為はいわゆる可罰的違法性を欠き罪とならない、と主張するものである。
思うに、公務員等の争議行為で国公法ないし地公法所定の罰則の構成要件に該当する行為であつても、具体的事情のいかんによつては法秩序全体の精神に照らし許容されるものと認められるときは、刑法上違法性が阻却されることもあり得ると解される(最高裁四・二五判決参照)。しかし、一旦構成要件に該当する以上、実際上は格段の例外的事由が存しない限り、このような違法性の阻却(この場合、可罰的違法性の欠如と同義に解する。)は認められないであろう。すなわち、「あおり等の行為」の対象となる争議行為の目的が社会的に是認されざるを得ず、争議行為自体及び「あおり」等の行為の手段・様態が相当で、法益侵害の程度も軽微である場合等に限定されると思われる。そこで、この観点から本件ストないし被告人らの行為を吟味しつつ所論にも答えるものとする。
(一) 右に争議行為の目的が社会的に是認されざるを得ないものとは、たとえば三、4、(一)、(2) において上述したような、代償措置が本来の機能を果たさないためこの制度の正常な運用を要求して争議行為に出るような場合またはこれに準ずる場合を指すものである。しかるに、本件ストが昭和四八年秋以降の異常インフレによつて目減りした実質賃金の大幅回復などを一大目標に掲げていたことは認めることができるとしても、当時人事院、人事委員会等及び政府、地方自治体当局等の対応が代償措置を本来の形で機能させていなかつたとまではいい得ないこと、また本件ストが代償措置と直接のつながりがあつて行われたものとは認め難いことはいずれも既述(三、4、(二))したとおりであるし、原判決が詳細に説示しているところでもある。したがつて、本件ストの目的を代償措置との関係から正当視するわけにはいかない。
右の点に関連し、原判決が、組合側としては春闘時期に政府との間で給与引上げ額をめぐる事実上の政労合意を成立させるという方法をとらざるを得なかつたであろうとしたうえ、しかしこれは人事院制度を部分的に否定するという主張につながる、と判示したのに対し、所論は本件当時におけるこの政労合意人勧反映方式は人事院制度を前提として公務員給与の改善を図ろうとするもので、そこに強い違法性の契機を見いだすのは誤りだという。たしかに、日教組を含む公務員共闘の賃金問題に関する運動の窮極目標は「人勧体制打破・労使交渉による賃金決定の」のスローガンにあらわれているように、公務員賃金を現行の人事院勧告制度によらず、新しい労使交渉による決定方式へ移行させることをめざすものであるように思料されるものの、本件スト当時は未だその即時実現を所期していたとは思われない。しかし、本件ストも単純な賃上げ闘争を超えて右新方式移行への前進を企図した面があることは否定できないし、そのための一過程である政労交渉の場をストを背景にして作出し、政府から人事院勧告に先立ち、でき得れば有額回答、さなくともこれに近い言質を得て、これを人事院勧告に反映させようとする意図をもつ政治色の濃いものであつて、この意図が次に述べるスト権奪還の要求とともに、本件スト突入の重要な契機となつたと認めるべきである。もともと、日教組傘下公立小・中学校の職員団体の勤務条件等に関する交渉先は各地方公共団体であるべきであるが(地公法一〇八条の五)、しかし教職員の賃金等の決定が、すでに触れたように現実には国家公務員に準ずる形で運用されてきている以上、各県教組の連合体たる日教組において賃金問題等に関し政府・人事院等と交渉するいわゆる中央交渉ないし政労交渉については、それが平和的に推移するものである限り、事実として行われる一つの政治的現象とみれば足りるであろう。また、人事院がその勧告に先立ち、公務員組合等の意見を聴取する方式をとることも好ましい措置かも知れない。けれども、これら一連の手続において、組合側が法禁のストライキを背景に据えてその威嚇のもとに自己に有利な方向をかち取ろうとすることに対しては、もとより消極的に評価せざるを得ないものである。所論はかかる過程を政労合意人勧反映方式と称し正当化しようとするのであるが、到底同調できる主張ではない。
ところで、本件ストは、七四春闘の三大要求、すなわち「賃金の大幅引上げ・五段階賃金粉砕」「スト権奪還・処分阻止・撤回」「インフレ阻止・年金・教育をはじめとする国民的諸課題」の解決を標榜して行われたものであつて、単に賃金問題だけがテーマだつたわけではなく、右のように他のテーマも存し、なかでも重要視されていたのは「スト権奪還・処分阻止・撤回」であつたと思われる。もつとも、そのうち処分阻止・撤回(実損回復)の点は、日教組としては、打ち続く処分のため強く頭を痛める問題として前年の七三春闘の七項目合意以来の課題であつたにしても、政府の姿勢が固いため七四春闘の段階で一挙に解決できるとまでは徹底して考えておらず、むしろ春闘共闘、公務員共闘という関係団体と共通して取り組む最重点事項としては、スト権奪還への少なくとも橋頭堡(糸口)を確保することを考えていたものと推測される。スト権問題が解決されれば実損回復問題の悩みもおのずと縮小する関係にも立つからである。いずれにせよ、この推測は、春闘共闘が四月一〇日の閣議決定(その第一項は労働基本権問題である。)を不満としてストに突入し、その後の対政府非公式交渉が主として「スト権」に向けられ、四月一三日午前の「口頭合意事項」(その中心は労働基本権問題である。)の確認後直ちにストが終息し、この間、実損回復の問題が爼上にのぼることがあつても、つきつめたものでなかつたとみられることからも、十分裏づけられるであろう。(そうすると、原判決が、七四春闘で「スト権奪還」要求といわれるものの本音は実損回復をはかる点に当面の重点があつたと判示する部分((原判決書IV第四、二、2。二〇五頁))はやや疑問があり、「スト権奪還」の意図を軽視しているきらいがあるやに思われる。)
かくして本件ストは経済的要求の反面に、かなり強い政治的要求を含むものであつたといわなければならない。民間労組にせよ官公労組にせよ、労働組合(職員団体)存立の目的は労働(勤務)条件の維持改善にある。それを超えた政治的目的によるストライキは、政治ストと呼ばれ、これと対置される経済ストが一般には憲法二八条の保障下にあり、労組法一条二項の適用を受け得るのに反し、その適用を失うものとされるとともに、もともとストライキが禁じられている公務員においては、その違法の程度を高からしめるものと解される。本件は、もちろん政治ストにはあたらない。しかし、純粋な経済ストでもなく、経済的要求にからむ、いわば経済的政治ストの性格をもつものであつたとみられるが、このような政治性を帯有するストライキは憲法二八条との関係が希釈され、法秩序全体の見地からみて違法性を阻却されるストライキにあたるか否かの判断をなすについては、やはりマイナス方向に働くものといわざるを得ない。
(二) 争議行為または争議付随行為の違法阻却事由(可罰的違法性)の有無にあたつて考察の対象とすべき重要な要素として法益侵害の程度、すなわち「あおり等の行為」の対象たる争議行為の影響がある。そこで本件ストの影響を考察することとするが、一般に教職員の職務は公共性が高く、そのストは、それがかりに一時的なものであつても軽視し難い悪影響をもたらすものであることについてはすでに詳述した(三、6、(一)、(二))。そして、そこで述べたことは、おおむね本件ストにあつても具体的にあてはまるものと考えられる。そこで、さらに進んで本件に特有に生じた影響をみてみると、まず着目すべきは、本件ストが四月一一日の全一日にわたり、しかも全国的規模で行われた(被告人増田についてはその一環として東京都全域にわたる)広汎な職務の中断であることである。すなわち、当日このストに参加した日教組傘下批准県教組関係(二五都道府県)の公立小中学校教職員は一八万人以上にのぼり、そのうち起訴事実に直接関係する五都道県では都教組約二万四五〇〇人、北教組約二万三〇〇〇人、岩教組約六一〇〇人、埼教組約三五〇〇人、広教組約五八〇〇人を数えるものであつた(小野寺邦男の検察官面前調書、原審平野一郎証言等による。)そして、このような多数の教職員が当日の授業等を放棄し、教育現場を離れた結果、右五都道県に限つても、多くの公立小中学校において、臨時休校、下校時繰上げ、自習授業等の臨時措置を余儀なくされている。そして、当日は四月の新学期がはじまつたばかりであつたため、原審以来、検察官は、教師と児童・生徒との信頼関係確立のうえで最も重要な時期であつたと強調し、他方弁護人は、オリエンテーシヨン期で、授業が行われても短縮授業が多く多少これがずれても教育に支障のないものであつたと反論し、一つの争点となつている。もつとも、当裁判所はこの論争にさほど重きをおく必要はないと考える。なぜならば、技術的にはたしかに時期時期において授業の中味に軽重厚薄の差があり得るとしても、教員は所定の授業計画に則つてその時その時に能う限りの教育効果をあげるべく努めることを期待されているのであり、したがつて教育活動の空白の意味を考えるのに右のような技術的側面を殊更重く見て論ずるのは適当でないと思料するからである。一日の空白はどの時期におけるものであれ決して軽視できないものといわなければならない。この点に関し、弁護人らは、当時は午前中二時間ないし四時間の短縮授業が多かつたから全一日ストといつても実質的には二時間ストないし午前中半日ストと異なるところはなかつたともいう。しかし、日教組としては本件ストは日教組結成以来初の全一日ストとしてまさに「歴史的な全一日ストで」であつたのであり、その「全一日」の一般並びに組合員自身に及ぼす心理的効果は強力なものがあつたとみるべきであるのみならず、授業面だけからすれば弁護人所論のように二時間ないし四時間の放棄といえないわけではないにしても、スト参加者らはスト行事から学校へ復帰した者を除けば殆んどは全一日職場放棄を敢えてしたもので、全一日ストとみて何ら差し支えないものである。いずれにせよ、本件ストは全国規模の(被告人増田については東京都全域にわたる)、しかも全一日に及ぶ職場放棄であつて、これを指導した被告人らの行為は法益侵害の程度が軽微なものとは到底いえない性質のものであつたと考えられる。
なお、本件ストによつて格別の保安上の問題は生じなかつたようである。しかし、これは学校管理者側及び非組合員ないし非同調者ら争議不参加者らの適切な対応の結果に帰せられるべきものであつて、日教組としては(保安要員を配置した個所は別として)保安上の問題が生じなかつたことを揚言し得る立場にはないと思われる。
(三) 次に、所論中の、本件「あおり」等の行為は、多数組合員の闘争意欲の高まりに沿つて行つたもので、ストに対する原動力性や具体的危険性は軽微なものであつた、との主張について考える。
右所論は要するに、原判決のいう「盛り上り論」を表現を変えて主張するものである。原判決は原判決書IV第三、二「いわゆる下部組織からの『盛り上り』と『あおり』等の該当性について」の項(一五四頁から一六六頁)においてこれを取りあげ、おおよそ次のように判示した。すなわち、本件が全一日ストを含む強力な争議行為であつたにもかかわらず二五都道府県組合において参加者が高率にのぼつたのは、一般組合員らが昭和四八年末以降のかつてない物価謄貴に処して、大幅給与引上げ等を主たる目標とする本件闘争に積極的な意欲をもやし、あるいはそれほどでなくても共感し支持する者も多い状態であつたことは弁護人の主張するとおりと認められる。しかし、日教組のような大組織で、組合員数も多い集団になると、さまざまな考え方の者があつて、これを全一日のストにまで組織していくには組合幹部の強い指導性が必要とされ、現に本件では昭和四八年の第四三回定期大会前後頃からスト突入に至るまでの経緯をみると、同大会でまず全一日のスト路線を用意し、これに沿うよう組合員の意識を触発したのは組合幹部であつたし、また、組合幹部による各種の教宣ないしオルグ活動の指導があつたればこそ高率なスト批准率、スト突入率が得られたものであつて、それをただ一般組合員の自然な意識の全面的反映として受けとめることはできない。そして、このような組合幹部の活動のなかでも被告人両名の指導力は、その組織における立場上、最も重要なものであつた、と以上のように判示したのである。組合幹部と一般組合員との関係については、当裁判所も既述したところである(四、(一))。そして本件における組合幹部、ことに被告人両名の役割についての原判決の右判旨は正鵠を射ているものと思われる。したがつて、当裁判所も原判決と同じく、本件ストについては、下部、特にいわゆる組合意識の強い者らからの一部盛り上りもあつたことは肯定的に理解するにしても、本件ストの原動力はあくまで被告人らを含む日教組及び各県教組の組合幹部であつたことは否定しようもない事実であるとみるのである。それ故、被告人らの各行為が本件ストに対し具体的危険性が軽微なものであつたとは到底いえず、この盛り上り論と同旨の論法をもつて被告人らの行為の違法性を阻却する主張とするのには組し難い。
(四) なお、この控訴趣意書第五章においては、原判決が被告人両名の「あおりの企て」または「あおり」として認定した事実についての誤認の主張が散見されるが、それらはすべて控訴趣意書第二章及び第四章に対する判断として既に判示したか、あるいはその判示によつて結論できるものと認められるので、重ねての説明を省く。
以上述べたほか、本件をめぐる諸般の事情を詳細点検しても被告人両名の行為が法秩序全体の精神に照らし許容される性質のものとは到底判断できない。要するに、所論が原判決は事実面、法律面で誤りをおかしており、被告人らの行為がいわゆる可罰的違法性を欠くものであるとする主張は採用するを得ないといわなければならない。
六 結論
弁護人らの論旨はすべて理由がない。
第二検察官の控訴趣意に対する判断
一 控訴趣意の要旨
検察官の所論は要するに、原判決は、検察官の被告人槙枝に対する懲役一年六月、同増田に対する懲役一年の各求刑に対し、被告人両名をそれぞれ罰金一〇万円に処するとしたものであるが、これはその量刑が軽きに失し不当であるから破棄されるべきである、というものであつて、その理由として大略次のように述べる。
1 本件は、その規模、態様、影響及びその性格からみて、きわめて悪質重大な違法争議行為事犯であり、被告人らは組織の最高幹部の地位にあつて、これを計画、指導、推進したもので、その責任は重大であるから、被告人両名に対する量刑は懲役刑を選択して処断するのが当然である。すなわち、<1>本件は、全国的規模による全一日ストライキという最強の手段を用いた違法争議行為事犯であつて、公共性の高い公立学校における義務教育の遂行にきわめて大きい影響を及ぼした。<2>本件ストは、その目的、実態からみて政治的性格が強く、かつ、相当以前から計画、準備されたスケジユールストであつて、違法性がきわめて強い。<3>被告人らは、日教組または都教組の最高幹部として本件ストを計画し、終始その実行を指導、推進してきたもので、その責任は軽視できない。<4>本件は、国公法及び地公法制定以来、検挙・起訴された同種事犯中、最も悪質な違法争議行為事犯でありその量刑にあたつては同種事犯に対する科刑状況も考慮する要がある。
2 原判決が、本件ストの悪質重大性と被告人両名の刑責の重大性を認定しながら、最高裁判例の変遷を主な理由に、「本件の違法性を明確にすれば、裁判の目的の大半を達成できる」として、被告人両名に対し、罰金刑を選択して処断しているのは不当である。すなわち、<1>本件ストを、最高裁判例の動揺期に生じたものと表面的に捉えて量刑上評価することは、正しくない。<2>本件は、最高裁四・二五判決に敢えて挑戦して行つた違法争議行為事犯であり、最高裁判例の変遷は、量刑上特に考慮すべき事由にあたらない。<3>原判決が、本件の違法性を明確にすれば裁判の目的を達するとして、被告人らに対し、罰金刑を選択しているのは失当である。
二 当裁判所の判断
そこで、原審及び当審において取り調べたすべての証拠を総合して、検察官の主張の当否を考察する。
1 検察官の所論中、本件「あおり」等の行為の対象となる本件ストに関し右一の1の<1>及び<2>に指摘している各事実については当裁判所もほぼ同意見であつて、既に「第一 弁護人の控訴趣意に対する判断」において示したとおりであるので(特に、<1>については三6(一)(二)、五(二)。<2>については五(一)、二A1、二B1、三4(二)。)、再び繰り返さない。そして、このような大規模で違法性の強いストライキが公共性の高い職務を有する教職員によつて敢行されたことについて、被告人槙枝は日教組中央執行委員長ないし中央闘争委員長たる最高の地位において、その企画から終結まで終始これを主導した者であり、また被告人増田は日教組傘下最大の単位組合である都教組の委員長ないし代行たる地位においてその推進を図つた者である。被告人両名の本件「あおり」等の行為の刑責は甚だ重いといわざるを得ない。
2 しかしながら、他方、右のような本件ストの背景には、次のような政治的、社会的事情が重層的に横たわつていたことにも留意の必要があろう。
その第一は、既述のとおり、公務員のスト禁止の代償措置である人事院勧告について、政府が長くその完全実施を見送つたため、公務員組合としては公務員共闘を結成したうえ、公務員の生活を守るにはストを構えて、わが国特有の春闘に連動させつつ民間賃金相場を押し上げることと併行して、いわゆる政労交渉により有利な人事院勧告とその完全実施を迫る労働闘争を組織する挙に出るのもやむを得ないとし、またそれはそれなりに実効を収め得たとみられる状況が続いたこと、そして、殊に本件スト直前は原判決説示の如き(原判決書IV第四、一、1。一八六頁以下)急激大幅な異常インフレに際会していたため、民間労働者と同じく、公務員とてその賃上げ要求は従前にもまして強力になされることが当然視されるような雰囲気にあつたこと、である。
その第二は、占領下において一旦付与されていた官公労働者のスト権の「奪還」は、官公労組にとつて年来の宿願であつて、昭和二〇年代以来絶えず政府に対して強くその解決を求めてきた問題であつたこと、そしてこの奪還闘争の有力な舞台としてILOが最大限に利用されたが、ILOはおおむね労組側に利益に作用する見解を次々と打ち出し、これは明らかにわが国官公労働運動に自信と、はずみをつけるものであつたこと、一方、政府はこのような国内の労働状勢や国際世論にかんがみ、公務員の労働基本問題審議の機関を設けて対処することとしたものの、早急な進捗はみられず、本件ストの前年九月に至つて、漸く第三次公制審の答申が出されたが、これはスト権についていわゆる三論併記の形をとり、スト権回復の方向を必ずしも明らかにするものではなかつたこと、したがつて、労組側としてはこの内容にもとより不満足ではあつたけれども、しかしこれが少なくとも今後のスト権奪還の足がかりになると判断したやに推測され、かくして七四春闘を迎えたこと、である。
その第三は、裁判所における判例の変遷である。この経過と内容については原判決が詳細判示するところであり(原判決書IV第二、1、2、六八頁以下)、訴訟関係人に周知のことであるから詳説しない。要するに、公務員のストに関する罰則規定の合憲性については、久しく判例の間に見解の相違が存し、最高裁一〇・二六判決を経て、漸く四・二判決による一応の統一があつたが、やがて四・二五判決による世にいう″逆転判決″が出るに至つて、この問題の帰趨はほぼ確立されたとみられる。しかし、四・二五判決が国公法上のストに関する罰則規定を無限定に合憲としたことについては七裁判官の実質的反対があつたこともあつて、再逆転の観測や、依然四・二判決を支持し、あるいは判例はなお動揺期にあるとする論調も少なくない状況にあつたことが指摘される。
本件ストは、このような当時の潮流のなかで行われたものであつた。そして、官公労組側からみるならば、経済的要求とともにスト権回復を求めるため実力行使の行為に出ることは、官公労働運動として必然性と多分に正当性とをそなえたものと認識され易い情勢にあつたと認められる。当裁判所は右第一ないし第三の各事情を基にこのように認識することが必ずしも妥当とはいえないこと、そしてそれを基に安易にストに突入することが許容されるものではないことについては、弁護人の控訴趣意に対する判断の各所ですでに述べたとおりである。しかし、被告人らが本件ストを指導した背景に、叙上のような客観情勢(その一部は被告人らが関与して作出した部分があるにせよ)があり、その大きな脈絡の中で本件ストが行われたことを参酌するならば、このことはおそらく被告人らの刑責にある程度の控制を加えるべき原因となると考えるのが、相当であろう。そのうえ、<a>本件ストは被告人らの指導のもとに、ともすれば労働争議に伴い易い暴力の行使等の形跡はなかつたこと(いわゆる平和的ストライキであつたこと)、<b>政治判断や捜査技術上の制約があつたとはいえ、同時にストに突入した他の公務員組合指導者に対しては一切訴追が行われていないこと、等にも量刑上幾何かの考慮を払うべきものと思われる。
3 ところで、原判決は本件の重大性を肯認しながらも、諸般の事情、特に、本件ストは未だ前記四・二五判決の定着・滲透前の動揺期に行われたことを主たる理由とし、なお本件が集団的労務不提供の域にとどまつたこと等を付加して、裁判所としては本件ストに違法の「けじめ」をつければ裁判の目的の大半は達せられるとして、被告人両名に対し、所定刑中罰金刑の最高額を科したものである。
しかしながら、たしかに本件スト当時、判例が動揺状態にあるとの見方が存したことはさきにも触れたが、公務員のスト禁止条項自体については最高裁は一貫してこれを合憲としてきたのであつて、変遷は主としてストに関する罰則規定の解釈適用の点にあつたし、四・二判決によつてもストの「あおり等の行為」がつねに不可罰とされるものでもなかつたのである。(すなわち、四・二判決は、当該事案である都教組の全一日一せい休暇闘争につき、その刑事法上の違法性はこれを肯認しつつ、ただ「あおり」の態様が争議行為に通常随伴する行為として違法性を欠く、としたものであり、したがつて「あおり」のいかんによつては可罰的となる余地を優に残していたものである。)そして、四・二五判決は世上これに対する賛否の論がうずまいていたにしても、その重味の司法実務上に与える影響は甚大であり、また同判決は国公法に関するものであつたにせよ、その趣旨はやがて地公法にも及び、四・二都教組判決の判例変更も必至と予想する向きが圧倒的であつたと思われる。しかも、政府による公務員等のスト権に関する当時の審議状況からすれば、間近い時期に公務員のスト権法制が組合側に有利に改変される予測が立ち得る状況にもなかつた。したがつて、判例が動揺状態にあつたとみても、それは決して公務員のストを全面的に適法視する方向に動いていた関係のものではない。してみると、四・二五判決からすでに約一年を経て、敢えて決行された本件ストに対する司法の立場としては、同判決の趣旨に同じる限り、組合指導者にもその趣旨をきびしく受けとめるべく求める態度をとるのが正則であろう。まして、被告人らにとつて、同判決の趣旨は到底容認できるものではないとして、当初から、「たたかい」の対象とみなされていたのであつて、このことはその判決が動揺期のなかにあろうと否とには毫もかかわりはなかつたと思料される。現に、被告人らに指導された日教組は本件スト後、昭和五一年の前記五・二一判決、同五二年の五・四判決があつて、客観的にみて判例がもはや疑問の余地がなく確立したとされる状態になつてもなお短時間とはいえストを敢行し続けてきたのであつて、原判決の如く判例が動揺期にあつたことを必要以上に重視するのは必ずしも均衡のとれた見方とはいい難いものがある。したがつて、原判決のこの点に関する説示は、公務員ストに対する従来の量刑と比較した場合、被告人らに対し罰金刑の緩刑を科した理由としては些か薄弱というほかなく、むしろ本件が重大性をもつ事犯であつたことを認めるならば、これに対する否定的評価を、単に「けじめ」をつけるという観点を超え、その刑の質と量の両面においてふさわしい形で明確化しておくのをよしとすべきであつたと考える。
4 かくして、以上総合考量のうえ、当裁判所としては、被告人両名を罰金刑にとどめた原判決の刑の量定は、たとえその最高額を科したものであるにしても、なお軽きに失すると判断する。
若干付言すると、ILO関係の意見では、違法なストライキ、特にいわゆる平和的ストライキに対する科罰に拘禁刑を用いることにはきわめて消極的である(第一、三、7参照)。労使関係の安定を阻害することを主たる理由とする。もつとも、わが国の執行猶予制の如きものについてどのように認識しているかは分明でないのであるが、いずれにしても、わが国において、広く公務員制度の全体、そしてまた公務員労働運動のあり方、さらには全刑罰体系、違法行為に対するその抑止力等を総合的に考察し、スト禁止の法制度を設けたうえでこれを維持する観点から適当な体刑規定を公務員法に置いていることは、十分な政策的意義を有するものと考えられる。地公法六一条四号(国公法一一〇条一項一七号も同じ。)に罰金刑のほか、三年以下の懲役刑を規定しているのは決して不合理なものではない。しかし、そうだとはいつても、本件においては、前叙2のような事情も存し、また事件発生後一〇余年の時日を経過して日教組の労働闘争にも若干の変容がみられ、また日教組委員長たる被告人槙枝も、都教組委員長たる被告人増田も、ともにすでにその地位を去つていること等を考慮すると、被告人両名に対し、原審検察官の求刑の如き重刑を科する必要はなく、また直ちに実刑をもつて臨むことも適切を欠くといわなければならない。他方、日教組委員長であつた被告人槙枝と、都教組委員長であつた被告人増田との間には当然その刑責において差等があるべきである。後者については、当時同時にストを指導しながらも訴追に至らなかつた日教組幹部、各県教組委員長らとの権衡等もそれぞれ考慮する必要があるであろう。
ともあれ、被告人両名に対する原判決の量刑は不当といわざるを得ない。検察官の論旨は理由がある。
第三破棄自判の内容
よつて、刑訴法三九七条一項、三八一条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により次のとおり自判する。
原判決の認定した事実(但し、その一部を左記のとおり改める。)に法令を適用すると、被告人両名の各所為は、それぞれ包括して刑法六〇条、地公法六一条四号、三七条一項前段に該当するので、いずれも懲役刑を選択し、その所定刑期範囲内で被告人槙枝を懲役六月に、被告人増田を懲役三月に各処し、刑法二五条一項により、被告人両名に対し、この裁判確定の日から一年間それぞれその刑の執行を猶予し、原審及び当審における訴訟費用については、刑訴法一八一条一項本文により別紙訴訟費用負担表記載のとおり被告人両名に負担させることとして、主文のとおり判決する。
記
原判決の「罪となるべき事実」中
1 第一、一の「指令第一八号」を「指示第一八号」に改める。
2 第一、二、3の(一)、(三)及び(四)中、「指令」を「行動要請」に改める。
3 第一、二、3、(二)を
「同年四月九日、日教組本部役員らと共謀のうえ、右日教組さん下小・中教職員らに対する右(一)と同趣旨の行動要請を都教連を介して都教組あて発出伝達し、」に改める。
4 第一、二の終二行を
「もつて、地方公務員に対し、同年四月一一日の同盟罷業の遂行をあおり(右3の(一)、(三)及び(四)の関係)、またはあおることを企て(右3の(二)の関係)、」に改める。
5 第二、二、1の「右指令を伝達し、」を「右指令の趣旨を伝達し、」に改める。
6 第二、二、3を削る。
(裁判長裁判官 萩原太郎 裁判官 小林充 裁判官 奥田保)
別紙
訴訟費用負担表<省略>